銀の樹銀の葉銀の花


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そしていよいよ女王陛下ご一行は最初の行幸先であるリースへと向かった。この行幸計画から円卓会議に復帰したルネはちぎれそうな勢いで大きく手を振って送り出してくれた。

アルティマ計画の際ジンクスにより破壊され尽くした天使の広場は、すっかり整備され、午後からのイベントに備えてロープで囲いが作られている。楽しいことが好きなリースの市民性か、区切られたロープの向こうには小規模ながら行列が出来、場所取りをしようと待つ人々がいた。周囲の商店なども、建物こそ仮設ながら、往時の賑わいをほぼ取り戻していた。
天使の広場に面した一角にある教会に教団の馬車を停める。そこから聖騎士の馬に同乗して、おしのびで母校メルローズ女学院を訪問するのだ。

馬を走らせて到着した学院では静かであたたかい歓迎を受けた。懐かしい場所、懐かしい顔ぶれに胸が熱くなる。ハンナやサリーと個人的に話ができないのが残念だが。ここでは教師や生徒たちと混じって、昼食の席に着いた。週に何度か生徒たちの当番制で全校生徒と職員と時には来賓の分まで調理するメルローズの昼食も、今日はアンジェリークと同じ学年だった生徒たちの手による特別行事食だ。ただ懐かしく、嬉しい。食事に添えられたメッセージカードがまさしくハンナとサリーの手になるものだったのも嬉しいサプライズだった。
食後に案内されたメモリアルルームはものすごく恥ずかしかった。なんでも、理事会がメモリアルルームの設置を決めたのだそうだ。某理事のにやりと笑む姿が目に浮かぶ。学院へは警護のための付き添いだけ、のはずだったヒュウガが気のせいか楽しそうに見学していたのがなんだかちょっと悔しい。だけれどクローゼットの前で一瞬見せた虚を突かれたような表情にはアンジェリークの方がうっかり笑ってしまいそうになった。

楽しい時間はあっという間に過ぎ、学院長先生の「あなたはがんばりすぎる癖があるから気をつけるようにね。もし肩の力の抜きかたがわからなくなったらここに来なさい。ここは貴女の実家のひとつですよ」という言葉に涙腺を大いに刺激され、後ろ髪を引かれながら再訪問を約束して再び教会まで戻り、正装に着替えてイベント出席の準備をする。今日は新しく作られた天使像の除幕式なのだ。女王陛下自らが天使像と出席者に祝福を捧げてくれるというのでたいへんな評判になり、リース近郊のみならず、遠くファリアンやウォードンからも観客が詰めかけている。
なんといっても女王になってはじめて聖都の外で民の前に立つというので少しばかり緊張していたアンジェリークだが、カメラを軽く持ち上げて合図し、目が合えばとびきりの笑顔を返してくれたベルナールの姿に、そしてすぐに隣まで来てくれた式典参加者のニクスに、平常心を取り戻す。
式典が始まった。広場を人が埋め尽くし、周辺の店の二階の窓や街路樹の上からカメラのレンズが光る。噴水脇に張られたテントの前、女王はリース市長と地元の名士ニクスを両脇に立っている。合図と共に天使像に掛かった幕に結びつけられた綱を緊張気味の子供達が引っ張り、新しい天使像が現れた。観客の中からどこからともなく大きな拍手が起こる。
天使の広場の名前の由来にもなった以前の天使像は、ジンクスによって修復不可能なレベルで破壊された。新しい天使像はデザインを一新したもので、4枚の翼を持つ姿をしている。天使の容貌を女王に似せたいという打診は教団により却下され、その結果かなり抽象的なフォルムを持つ斬新なものに仕上がっていた。
教会の鐘が鳴り響く中、女王は立ち位置より一歩進み出て、天使像の前で祈る。その背後に現れた光の翼の美しさと神々しさに一同は息をのんだ。
そのあと噴水脇にしつらえられた演壇で感激さめやらぬ関係者の祝福の辞が次々述べられ、女王も簡単な挨拶をして、式典は終了した。女王陛下と天使像を間近で見ようと人々が押し寄せる。教会関係者と銀樹騎士が人の流れを整理している。天使像脇のテントの下に控えていた女王は手を振って人々に応える。
小一時間後行列が解消されたのを見届けて女王は教会に移動し、式典関係者のレセプションに出席する。こうして日の落ちる頃、女王の初めての行幸は無事に終了した。

聖騎士以外の教団関係者は聖都への帰途につく。
女王はこれより2日間の公休を取り、陽だまり邸に「里帰り」するのだ。ニクスが迎えの馬車を回してくれた。

2日間の公休にテーマがあるとすれば、それは陽だまり邸で昔の仲間とあの頃の日常を過ごすことだ。派手なパーティーこそないが、それぞれに多忙の中スケジュールを調整して陽だまり邸に集まり、夕食会で各々の近況を披露しあい、ニクスがあの頃のままにしておいてくれた各自の部屋に泊まる。もちろんオーブハンターへの依頼はもうないので、各自サルーンでカードゲームをしたり庭を散策したりキッチンでお菓子を作ったりしてのんびり過ごすのだ。警護のため同伴する聖騎士もこの公休中はオーブハンター仲間のヒュウガだ。聖都を出るまえから、陽だまり邸においてはあくまで仲間であることを重々強調しておいたのはどうやら無駄ではなかったようで、少なくともニクスの心づくしの手料理による夕食会の間はスムーズに会話が進んだ。
夕食会のあと、アンジェリークは思い立って庭に出てみた。陽だまり邸における最大の変化は、庭が花だらけになっていることだ。月明かりの下でもところどころ白い花が輝いている。せっかくの月夜だ、泉に映りこんだ月はさぞ美しいだろうと泉の方へ進む。どこにあるのか、夜香木の放つ甘い香りがかすかに漂う。灌木の枝に白く浮かび上がるのはカラスウリの花だ。すっかり開いて惜しげもなくその繊細なレース模様を晒している。
果たして木の下には先客がいて、泉を見やりながら静かに杯を傾けていた。
予想もしていなかったというと嘘になる。
先方も同様だったようで、とくに驚いた様子も見せず、手でアンジェリークが座る場所を示した。
「食堂の窓から月を見やっていたので来ると思っていた」
「お見通しってワケですね」素直にすぐ隣に腰を下ろしながら言う。言ってしまってから、なんだか意地悪く聞こえたらどうしよう、と心配になった。
「いや、わからん事だらけだ。…己の心さえも」
それだけ言うと杯の中味を一気に煽り、注ぎ直す。
アンジェリークは黙っていた。どんな言葉を紡げばいいのか必死で探すのに、言葉の糸はするりと逃げ、つかんだと思えばはかなく切れてしまう。
「美しいな。これも貴女の御陰、か」
泉に映る月を見ながらヒュウガが言う。
どうしても言葉が出てこないアンジェリークは黙って頭を横に振り、月影とそれを眺める人の横顔を交互に見つめていた。
気まずい沈黙をどう破ればいいのかわからない。相手は気まずいとも思っていない様子なのも悔しい。そのうち月影が泉から半分出かかった頃に男が声をかけた。
「夜風は身体を冷やす。部屋まで送ろう」
アンジェリークは頷いてヒュウガの差しだした手に自らのそれを重ね、立ち上がった。部屋までの道すがらも、二人とも無言だった。

翌朝、庭の花で花束を作って、アンジェリークはフルールまで足を伸ばした。馬車に乗り込んだ瞬間から仲間ヒュウガは警護の聖騎士になる。目的地までアンジェリークはひとことも話さず、ただ景色を眺めていた。
馬車を降りて墓地に向かう。ヒュウガは墓地の入り口で待っている。花束を供え、祈りを捧げたあとしばらくぼんやりと立ちつくして周囲の風景を目に焼き付けた。
遅いと思ったのか、様子がおかしいとでも思ったのか。ヒュウガもアンジェリークのそばにやってきて、足もとの墓に跪いて祈りを捧げる。
「ご両親か」
アンジェリークは黙って肯う。
「美しい場所だ」
「ええ、本当に」
泣くつもりなど全然無かったのに、気がつくとヒュウガの肩に顔を埋めて泣いていた。しばらくして我に返り、背中を優しく撫でている手に気がつくと跳ねるように身体を離した。
「もう大丈夫です。ありがとう」
「なんの」
馬車まで戻るとき、無言なのが気詰まりだろうと気を遣ってくれたのか、ヒュウガが言う。
「オーブハンター時代我々のことをお嬢様と用心棒だと言った者がいたな。今思うとあながち間違いではなかった気がする」
どう返せばいいかわからなかったが、少し笑った。ヒュウガもほっとした顔をしたのが少し可笑しかった。
帰りの馬車で、円卓会議から墓所を聖都に移動することを勧められていたこと、でもこのままにしておきたいと決心できたこと、この美しいフルールの村の美しい場所で眠る二人のためにも、世界を守っていこうと心から思えたことをとぎれとぎれに語るアンジェリークの言葉を、柔らかい表情でヒュウガは黙って聞き入っていたのだった。

陽だまり邸に戻ってからはジェイドと一緒に女官長に教わったデザートのレシピをおさらいしたり、ニクスに庭の花の名前や花言葉を教えてもらったり(前夜美しさに感嘆したカラスウリの花言葉が「男嫌い」だと聞かされて仰天した)、レインに聖都アーティファクト化計画について熱く語られたりしているうちに夕食会とそのあとのカード大会を経てあっという間に楽しい休日は終わる。
また皆で集まることを約束して、翌朝短いが充実した公休が終了したとき、聖都への帰路についていたのは、女王と聖騎士の二人だけではなかった。ルネがジェイドを聖都に招待したのだ。
二人きりの気まずさが回避できると、アンジェリークは内心胸をなで下ろしつつ、何か惜しい気もしていた。ヒュウガも似たようなものらしい。そんな二人の様子を気にせずにジェイドは終始上機嫌だ。

ルネは聖都に着いたジェイドを早速自らの執務室に呼び出した。
「一度彼とゆっくり話してみたかったんだ」と言って。

古代の叡智が集積している存在のはずの彼は、その立派な体躯に似つかわしくない牧歌的な雰囲気を漂わせている。これがもし現代のアルカディアに最も相応しく擬態しているのだとしたら、本当に古代の智慧は途方もない、とルネは思う。農業社会に適応しやすい、「気は優しくて力持ち」を絵に描いたような存在。無邪気さと、それに反した巧みな話術。話せば話すほど、その思いは強くなる。

当たり障りのない会話をしばらく続けたあと、ルネはジェイドの記憶力を当てにしている旨を伝え、陽だまり邸での生活やオーブハンターとしての日々についていろいろなことを尋ねた。女王が即位するまでの、とくにオーブハンター時代のことを今後伝承して行かなくてはならないという名目で、一応、それは本当のことなのだ。
だいたいの話が終わり、ルネはずばりと聞いてみることにした。この相手には遠回しは通じない事がわかったからだ。
「決戦前の二人はどうしてた?」
「別れを惜しんでいたよ。…それ以上のことは、上手く言えないな」
どうも必要以上にプライバシーに踏み込んだ情報については、削除または簡単にアクセスできないようにする機能が付いているらしい。たいしたものだ。しかし別れか。確かにきちんと別れを告げた相手と四六時中顔を合わすのはかなり微妙だ。あちこち不自然になるのもむべなるかな、などとつらつら考えてはみる。
それでも食卓のムードブレイカーたるヒュウガのエピソードをしつこく掘り起こし(もちろんディオンや他の銀樹騎士や教団上層部たちとの世間話のネタにするのだ)、それぞれが以前思い描いていた将来の話になり、ジェイドが言った。
「すべてが終わったら故郷に帰りたい、って言ってたよ」
それで、方針が決まった。

ジェイドはとりあえず聖都に引き留めておいて、その日の夕方の女王宮関係者―すなわち女王と教団長と女官長と聖騎士―のミーティングで、ルネは厳かに宣言した。
「ヒュウガさ、向こうから帰ってきてからずっと休んでないよね。もう行事は一段落したし、次の行幸までひと月以上あるから、帰省してきなよ。お休みあげるし」
「ご好意とお気遣いは感謝するが、帰省となると日数がかかり過ぎるゆえ、謹んで辞退する」
ヒュウガとしてはこの話はこれで済むはずだったのに、意外な場所で反撃ののろしが上がる。女官長だ。
「聖騎士様は公休日も銀樹騎士たちと剣や槍のお稽古ばかりではありませんか。私も少し働き過ぎなのではと思っておりました。聖騎士様は是非ここを離れて本当の意味でのお休みをおとりになるべきです」
とどめは女王だ。
「そうね。オーブハンターの頃から、一度帰省したいって言ってらしたものね。思いきってお休みするには誰かが背中を押す必要があるなら、私が押しましょう」

かくして、本人の意向を全く無視した状態で、聖騎士の休暇が決定してしまったのだった。それもすぐ翌日から、帰省してもう一度聖都に帰ってくるまでの無期限で。


   

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