銀の樹銀の葉銀の花


 5


聖都で新しい日常が始まった。
女王と女王宮の存在は、セレスティザムを少しばかり華やかにした。
即位儀式は終わったとはいえ、巡礼者は女王誕生前より格段に増えた。彼らは、たとえその姿を見ることは叶わないまでも、女王と同じ空気を吸う光栄に酔いしれるのだった。

女王宮の生活の型はほぼ固まってきていた。ここ聖都では一日数度鳴らされる鐘によって自然に規則正しい生活を送ることになってしまうのだ。
朝一番に自室での簡単な祈りを終え身支度を調えた女王陛下が女官長を伴って女王宮の入り口にある謁見の間に降りてくるのを、教団長と聖騎士が迎える。
その場でこの一日の予定について確認し合い、それぞれの持ち場に戻る。
新米の女王陛下にはまだまだ学ぶことが多く、大抵の場合教団長からこの世界についてのレクチャーを受ける。もちろん、祈ることは最も重要な仕事で、おもに女王の執務室で、大聖堂で、時には銀樹の下や、聖都で最も高い祈りの塔で、彼女は世界が平らかであることを祈った。
女王は基本的に女王宮の中で生活している。
女王宮の中は、入り口にある謁見の間とその続きにある女王執務室以外は原則男子禁制で、女王自身と女官たちしか入ることができない。教団長すら一番最初に女王を女王宮に案内したときが最初で最後だった。
そして女王が女王宮から外に出る時は教団長あるいは聖騎士を伴う。どうしても調整できないときや危険性が全くないと判断されるときは女官のこともあった。
当初聖騎士は女王宮の中以外ではもれなく影のように女王に付き添い、祈りの折には隣室で控えていた。
しかししばらくたってからは、朝一番と午後一番と一日の終わりにある女王と教団長と女官長と聖騎士の顔合わせの席でその日あるいは翌日の女王の行動をチェックし、教団関係者以外と接する可能性があるときのみの警護に切り替えることになった。女王が気詰まりさに音を上げたからだ。

即位の儀式のその日のうちに、旧知の仲であるはずのルネとヒュウガに対しては、部外者がいない状況下では従来通り名前呼びすることを控えめに要求した女王だが、すんなりその条件を受け容れた教団長とは異なり、あくまでもけじめを主張する聖騎士からはそれはあっさり退けられた。ささやかな願いが次に懇願と化しても状況はいっこうに変わらず、ついに厳命となって初めて聖騎士は女王陛下よびを諦めたが、意に沿わない命令に渋々従うことを示すかのごとく、その名を呼ばなければならない場面を避け、結果以前よりもいっそう無口になってしまったのだった。
そのまるで沈黙の行の最中にあるような聖騎士が一日中すぐそばに控えているのは息苦しいと思った女王の意図を汲んで、教団長が彼からの指導や手合わせを願っている他の騎士のためにという名目のもと、銀樹騎士たちの鍛錬に聖騎士を参加させたのだ。

ルネはアンジェリークが女王に、ヒュウガが聖騎士になった時点で、自分がこの二人と一番濃く接触する立場なのは嫌だなと漠然と思っていたのだが、実際はそれほど居心地の悪いものではなかった。二人の間の空気はかなりぎくしゃくしているものの、懸念していたほど重苦しくはなく、ただ戸惑いばかりがあるようだった。基本的にアンジェリークの方は大切なスタッフとしてヒュウガを扱い、ヒュウガは雲の上の人としてアンジェリークを扱う。そしてこのずれ具合がときどき露呈してアンジェリークを不機嫌にし、ヒュウガをより頑なにしていた。ルネには正直アンジェリークが何を考えているかよくわからないし、ヒュウガの不器用っぷりにもイライラするけれど、なんとか黙殺できる範囲内だ。現に二人をもとオーブハンター仲間とのみ認識している女官長は、「ふたりともそれぞれ別のベクトルを持つ頑固さの持ち主のようですね」と苦笑気味に見守っているのだ。


さて教団長ルネは女王の即位という一生一度の大仕事を終えた際に、実はもう一つの懸案をも解決していた。あのとき即位したての女王陛下から祝福を受けた際の教団長のフードの下からおなじみの仮面は取り除かれていたのだ。
実際にもっとたくさんの人の眼にその姿をさらしたのは教団主催の晩餐会の席上だが、参加者たちは教団長として臨席する少年に興味を惹かれはしたが、それよりも目の当たりの女王陛下に夢中だったので、女王の即位に合わせて教団長も交代したのだろうとだけ認識し、あらためて詮索することはなかったのだった。
この暴露のタイミングを示唆したのはニクスだったが、なんの混乱もなく晩餐会が終了した時点でルネは彼の老獪さにあらためて感じいった。まさに彼が予言したとおりの機が熟するベストのタイミングだったからだ。
即位関連の儀式がすべて終了した時点で、このひと月近くの教団長の多忙さをよく知る教団上層部は、教団長の休養の必要を鑑み、当面は即位したての女王の教育に専念し、教団運営に関するルーティンワークについては円卓会議を構成する面々にゆだねることを提案し、ルネもそれを受け容れたのだった。

そんなふうに急激に重荷を下ろしてしまったことが却ってよくなかったのか、ルネは以前より思い悩むことが多くなってしまった。

なんと言っても今のこの状態、すなわち女王が聖都にとどまったまま世界を見守るというのは伝承にはほとんど無い状況なのだ。もちろん聖都は女王の御座となるように作られている。しかし伝承では女王は即位後天上の聖地へと赴き、ここ聖都では教団の者たちが聖地の女王と銀の大樹を通じて意を交わしつつその思うところを実現するべく世界に働きかけるはずだったのだ。
だが聖都にいる女王は教団長のなかだちが無くてもその意志を周囲に伝えることができる。そして銀の大樹と意志を交わすことは教団長よりむしろ女王陛下その人の仕事になった。そのうえ、銀の大樹は女王決定の日以降何も語らないのだ。沈黙と言うよりは満足してごろごろと喉を鳴らしている状態とでも言えばいいのだろうか。そういえば大樹のお使いだったエルヴィンもすっかりただの猫に戻ってしまっている。
正直この状態の世界において、教団長の役目は無い、ルネにはそうとしか思えない。今はまだ女王の相談役としてかろうじて存在意義があると言えるだろうが、早晩お役後免になるだろう。

そもそも教団の存在意義は?この現状はただこれまで女王を待っていた自分たちの既得権益を主張しているだけの状態と言えないか?だとすれば女王制度にとって教団はむしろ有害なのではないか?

トップである自分がこんな事を考えているというのに、教団それ自体は自分が一時的に手を引いている現在でも、以前からと全く変わることなく運営されてる。むしろ女王即位を記念しての寄付や寄進が相次ぎ、教会や支部も増え、傍目からは教団はまさに我が世の春を満喫しているように見えるだろう。どうやら女王がいれば別に教団長がいなくても教団は回るのだ。

そんな風にふと考え込んでしまうとき、運悪くそばに女王陛下がいれば、柔らかな声が「ルネさん?」と心配そうに注がれる。
「ごめんちょっと考え事」
「なにかとても困っているように見えました」
「これをどう説明したら一番わかりやすいかなあ、なんてうっかり考えたらはまりこんでしまって。自分がよく知っていることを知らない人に説明するときってどこまで踏み込めばいいのか難しいね」ととっさにかわす。
なのに
「大丈夫ですよ。ルネさんはとっても教えるのが上手です。それに実はたとえ全然わからない説明がくっついていても、この世界のことなら、上手く言えないけど『わかる』んです」
そして微笑みを半減させて、慈母のごとき口調で言う。
「ルネさんやっぱり少し疲れているみたいですね。教団のことは正直わからないけれど、私にはルネさんが絶対必要ですよ?」
「ありがとう。でも、教団のことがわからないって、他の教団員が聞いたら悲しむよ」
「だって私教団に属していません。皆さんお忘れのようだけど」
そういって浮かべる笑みは、慈母では絶対ない。時々現れる小生意気な感じ。

こういう、ちょっと食えない部分があるのがアンジェリークの面白いところだけれど、それを楽しむ余裕がない人間にはちょっと厳しいかも知れない。ヒュウガが距離感に苦労しているのもこの辺りに因するのだろうか。

ああ、そうだ、彼は困っているのだ。そして彼女はそれを知っていて、放置している。たぶんどういうつもりでもなく、ただそのままにしているのだ。

…少し現状がわかった気がしても、これからの指針になどなりはしないのだけれど。