銀の樹銀の葉銀の花


 11


ヒュウガの帰還は思いの外早かった。彼の気性から、超特急で帰ってくるだろうと思っていた周囲も驚くほどに。
早速その夜はいつものメンバーにジェイドとディオンを加えた夕食会になり、キリセの話に花が咲いた―と言いたいところだが、そこはヒュウガのこと、皆であの手この手で聞き出すことになったのだった。
「さぞ歓迎されただろうね」
「村長が挨拶に来たな。郷里の誉れだといわれてたいへん面映ゆかった」
とりあえず彼の故郷の景色は彼の記憶のそれとは少しばかり異なってはいたが、やはり美しかったようだ。だが、実家の様子は彼の記憶と異なっていたらしい。
「俺はどうやら7人兄弟だったようだ」
「弟さんと妹さんがいらっしゃるとはお聞きしていましたが」
「そのあとに更に弟3人と妹ひとりが生まれていた。一番上の弟が家を継ぐらしく、婚約者を紹介された」
「それは賑やかでございましょうね」
「ああ。ただ、手土産が足りなかったのが悔やまれる。帰路ファリアンで追加の贈り物を手配しておいたがあれでよかったのだろうか」
「ファリアンからなら確実度が高いだろうから正解だと思うな。騎士団でもサキアのものはよくファリアンから実家にものを送っている」
「末の妹は8つだという。何を送ればいいのかずいぶん悩んだ」
何名かはファリアンの街で8歳の少女に贈るものを物色しているヒュウガを想像して必死で笑いをこらえる。
「とにかく皆元気で機嫌良く暮らしている。しかし、キリセは愛する故郷、永住の地と思っていたが、俺の暮らすのはやはり大陸だったのだと今回改めて気がついた。そういう意味ではちゃんと帰省してみてよかったと思う。休暇を頂いたこと、感謝している」
「俺もコズに帰ったあとセチエ経由でサキアに行ってみようかな。ヒュウガ、ちょっと後でいろいろ教えてくれないか」
「わかった。貴様にも世話をかけた」
「すごく楽しかったよ。みんな本当によくしてくれたし。騎士団の服を貸してもらってね。旅人としては入れない場所にも入れてもらえて、本当にいい経験だったよ。コズの長老たちへの土産話が山ほどできて、おまけにサキアやキリセの話まで聞けて嬉しいよ。」


次の日、ジェイドをコズへと見送ってからは、また何事もなかったように聖都の日常は続いた。
女王と聖騎士の様子も聖騎士が帰省する前とあまり変わらず、ルネは一番肝心の部分が計画通りに行かなかったことに密かに落胆していた。彼の考えでは、一度女王の元を離れることでヒュウガが自らの想いをよく認識し、なんらかの行動に出るはずだったからだ。

聖騎士が復帰したので、彼の不在期間中に円卓会議のメンバーが練りに練ったスケジュールに基づき、カルディナへの行幸とクウリールへの行幸が立て続けに実施されたが、初めての行幸のあとのように、二人の間の雰囲気がなんとなく変わったのでは、と思われるようなことは何もなかった。


そんな中ディオンの婚約が決まった。もちろん相手はハンナだ。
急遽騎士団同期の仲間が招集され、「いつもの店」で痛飲して祝うことになった。
当然ではあるが、ディオンは上機嫌を通り越して浮かれっぱなしで、アルコールがそれに更に拍車をかける。周囲も面白がってあまり酒に強いと言い難いディオンにどんどん飲ませて、あること無いことを引き出して騒ぐ。どうやら結婚式は花嫁の卒業を待って、ウォードンに再建されたばかりの教会で行い、披露の宴は劇場を借りるとか。実に景気のいい話だ。8歳年下の可憐な花嫁についても皆の興味は集中するが、酒にも婚約者にも酔っているらしいディオンは「とにかく可愛くて」というばかりで、皆の苦笑を誘っていた。
ヒュウガは仕事の都合でこの宴に少し遅れて参加した。果たして既にディオンはかなり酔いが回り、ろれつの怪しい酔っぱらいに成り果てていた。
「よお、お仕事ご苦労!」 とヒュウガの姿を認めると本人なりの最速でやって来て、隣に座り込む。
「ああ、遅れてすまん。それはそうと貴様も年貢の納め時だな。めでたい」とグラスをちょっと持ち上げて乾杯のポーズを取る。
「へへーん、うらやましいだろー。代わってなんてやんないからな!いくら貴様が親友でも!」
「…遠慮しておこう」
「だよな。貴様にはかわいいかわいい陛下がいるもんな。そりゃそうだよな」うんうんわかっている、とばかりに肩をつかみ、しきりに頷いている。あんなに頭を上下させると、更に酔いが回るのは必至だろう。ヒュウガは答えるすべもなく、いぶかしげにディオンを見やる。
「そうそう陛下には本当に世話になった。さすがは親友、ハンナのことよくわかってる。すごい。本当あの必勝法は役に立ったよ。ああ、女王陛下万歳!」
「それはよかった」
いったいあの言葉がどういう風に「すごく役立った」のかたいへん気になるところだが、この状況でディオンを問い詰めてもまともな答が返ってくるとは思えない。
「ま、色々あるだろうけど、貴様もがんばれよ!っていうか次は貴様だ!」と背中を無遠慮にばしばし叩いていたが、遠くの席からお呼びがかかって怪しい足取りで行ってしまった。

「がんばっていいのだろうか?」グラスの酒を一口飲んで誰にいうともなくつぶやく。
「いいんじゃない?」の声に思わず振り向くと、ルネがにっこり微笑んでいた。
「ルネ様!どうしてここに」
「ボクも一応ちゃんと招待されてるんだから騒がないでよね。お祝いのムード壊しちゃダメでしょ」
と、隣に腰掛けて、少し上目遣いでじっとヒュウガの方を見つめている。ヒュウガは今こそこのところの疑念をはっきりさせるときだと悟った。

「一度ルネ様にご確認しておきたいことが」
「だから、今は仕事中じゃないんだからそんな物言いでなくていいでしょ」と面倒そうな答えにはかまわず続ける。
「今回、当初ディオンに銀樹騎士であることを隠せと言ったわけが知りたい」

「なんだそんなこと気にしてたの。単に彼の幸福を願ってのことだよ。銀樹騎士の看板に惹かれて食いついてくる輩を最初から外しておきたかったからね。でも結局一目でばれてしまったらしいけど」
そうだったな、と今回の件についていろいろ思い返してみる。
「なんていうかさ、アルカディアの結婚市場において教団関係者の株が必要以上に上がっているみたいで、逆に危機感抱いているんだ、教団長としては。幸い今回向こうさんは農園主を探していたらしくて。農場地主じゃなくて、自分ちで畑やってる家。とりあえずどんな風に世の中が変わっても食いっぱぐれないようにって。いやあ、愛だね。ちょっと古くさいけど」
「ああ、そういえばディオンの実家は」
「で、なんでヒュウガがそんなこと気にしてたの」
「銀樹騎士団を解散させるつもりなのではないかと疑っていた」
ルネは目を瞠ると、椅子に座り直した。
「へえ、鋭いね。実は女王が聖地には行かず聖都にとどまることがわかってしばらくは、教団を平和に解散させる方法をあれこれ考えていた。でも、ないんだ。いくら考えても。想像以上に教団の存在は人々の心に、アルカディアの文化そのものに食い込んでいる。たしかに女王が実在する今も、女王自身が自分は教団に属していないと言い切っていても、アルカディアの民にとっては教団と女王は限りなくイコールに近い。だから今教団を解散させるのは女王を塔のてっぺんに載せておきながらはしごを外すような行為だとわかったから、それはやめた」
「安心した」
「でも女王が教団に属していないのは事実だよ。だから教団には女王を律する権利はない」
「…」
「つまり、もしも女王が突然とんでもないわがままを言い始めても、黙々とそれに従うのが教団だということ。理論上はね」
「恐ろしい話だ」
「ううん、全然。そもそも宇宙意志に選ばれた女王なんだから、多少のわがままも宇宙意志のつけたサービスオプションの範囲さ」
「よくわからんな」そもそもどうしてこんな話をしているのかが。そんな風に思っているのが伝わってしまったのだろうか。
「要するに、ヒュウガ、さっきディオンが言ったとおりだよ。『次は貴様だ!』」
ルネはにこにことヒュウガの表情を眺めている。遠目には天使の笑顔に見えるかもしれない。ヒュウガは黙り込んでグラスの中で溶けてゆく氷をただ見つめていた。


翌日、アンジェリークの元にもハンナから厚い手紙が届き、それ以降その日の女王の時間は定刻の祈りの他はすべてその手紙に費やされることになった。
その夜のミーティングのあと、女王がヒュウガに話しかける。
「ハンナから婚約したって報告がありました。ヒュウガさんもそのせつはお世話になりました」
「ああ、必勝法の件か」
女王はにこにこと頷く。
「昨夜騎士団でもディオンの祝いをした。それはそれは浮かれていたぞ」
「まあ。想像できないわ。ちょっと見てみたかったかも」
「たぶんそう遠くないうちに見られる」

「そうだわ、少しお話していきませんか?この前のお休みの時焼いたブランデーケーキがちょうど食べ頃なの」
「このような時間だが良いのか?」
「もちろんよ。じゃあ15分後にわたしの執務室のテーブルで待っていてくださいね。皆も誘ってくるわ」

15分後、女王執務室でヒュウガがひとりで待っているところに、お茶とケーキが乗ったトレーを持った女王がすまなさそうな顔をしてやってきた。
「女官長もルネさんも今夜は都合が悪いんですって。ふたりだけど、いいですか?」
一瞬迷ったが、頷くとほっとした顔をしてトレーをテーブルに置いた。

しばらくディオンとハンナのことや、新しく入った4人目の女官のことや、女官長のレシピの当たり外れの大きさなどについて話があちらに飛びこちらに飛ぶ。
簡素な見かけだが華やかな香りのブランデーケーキを賞味し、お茶を半分飲んだとき、女王が
「そうだわ!」と立ち上がると、後ろを向きどこからか花鏡を取り出した。
「まだこれのお礼を言っていませんでした。本当にありがとうございました」
「喜んでもらえたなら何よりだ」
「前のと少し絵柄が違うんですね。さりげなく蝶がいて感動しました」
「なるべく同じようなものをと思ったのだが、全く同じものは無いと聞いた」

女王は黙って花鏡を裏返し、テーブルの真ん中に載せる。
「…何が見えますか?」
「貴女には何が?」
質問に質問で返すのは卑怯だが、自分はその問に答えるすべを持たないと思ったのだ。

「…昔です。ひとつめの花鏡を二人で見た夜、そして花畑にいる私たち」
平和で美しいアルカディアの未来、というような答を漠然と想像していたヒュウガは、反射的に「すまない」と言ってしまった。

「どうしてここでヒュウガさんが謝るんですか。納得いきません」
思いがけず強い調子で返される。
「それでは、その、貴女の大切な思い出を、過去を、この花鏡が守ってくれることを祈るばかりだ」
「過去を守る…?」
ほんの少し首をかしげ、いぶかしげに見やるその人の首筋の白さがいやに目につく。
「そうだ」決して言わないでおくはずの言葉も続いて滑り落ちた。
「…現在と未来を守るのは、俺だ」


遠くで鐘が鳴る。もう引き上げるべき時間だ。そう思いながら、沈黙の支配するこの部屋から二人とも一歩も動くことができない。
沈黙を破ったのはアンジェリークの方だった。
「私が、陽だまり邸にいた頃とは違う別の私でも?」
「…あなたが愁いの影にとらわれていたのは疲れゆえではなかったのだな」
小さく頷いたアンジェリークはとつとつと語る。
「女王になるということを簡単に考えすぎていたのかも知れません。…時々私の身体は私のものではありません。心はどうなのか、近ごろそれも自信が無くなって」
今、これまでのどのときよりも、自分が必要とされている。そう確信したヒュウガは、ゆっくりという。
「貴女は貴女だ」
「人とは別の時の中を生きているとしても?」刺すような、それでいてすがるような視線だ。
「それでも同じ場所でいられる限り貴女を守る」
アンジェリークは目をそらして言う。
「騎士の義務ですものね」
どう言えば伝わるのだろう。ヒュウガは黙って首を横に振る。

「初めは単純に考えていました。星の舟の中がふたりの最後のときにならなくて本当によかったって。エレボスを倒したとき、たくさん相談したんです、宇宙意志と。そうしたらアルカディアを救いたいという気持ちとヒュウガさんと一緒にいたい気持ちを両方叶えてくれた。どっちも選べるのねって感激しました。それで全部円満解決だと思っていたんです。
でも聖騎士になってからのヒュウガさんを見ていたら、星の舟の中でのお別れの言葉は、ヒュウガさんの決断の宣言だったんだって、ヒュウガさんはもうそこから歩き始めてしまっているって、改めて思い知らされたんです。
それでもまだまだ楽観していました。こうなったからには時間をかけて気持ちを切り替えてもらえたらいいって。そして当面は私も新米女王としてできることに専念しましょうって。
でもそのうち自分がこれまでとは違ってきていることを意識するようになったんです。…言葉では説明できないけれど、明らかに違うの」
「女王のサクリアの目ざめ…」
「ええ、そんな言葉もルネさんが教えてくれた中にあったわ。でも私にとっては、宇宙意志という名の得体の知れないものに寄生されてしまったようなものだったの。そしてそんな中突然気がついたんです。私が変わってしまった以上、いくら時間をかけて待っていても、昔の二人には戻れないって」

いつかアンジェリークは目に涙を浮かべていた。ヒュウガはこれまで自分の感情の持って行き先に惑うばかりで、少しも彼女の苦しみに気づかなかった、否、気づこうとしなかった我が身を呪う。
「そう、だから過去はこの花鏡に任せればよいのだ」

もうこれ以上彼女につらい告白をさせてはいけない。早く安心させてやりたい。ヒュウガは女王の両手を握りしめて言った。
「あのときと同じ事をもう一度言う。守るのは女王だからではなく、貴女だからなのだと。そして、俺が守る以上、心配するのは貴女の仕事ではない」
頷いているのかしゃくり上げているのか、うつむいて肩をふるわせながら女王はそのまま涙を流し続けていた。だが、その手をふりほどこうとはしないのが答だと思った。
二人ともひとことも話さなかったが、今また新しいスタートラインに立っていることはなんとなくわかった。


しばらくたって、アンジェリークの涙が収まった頃、ヒュウガが唐突に言った。
「良い部下は忠誠と献身で主に仕えるもので、主に個人的な贈り物をしたりはしないものだ。少なくとも俺はそう聞かされてきた」
少し笑顔を作ると、持参した箱を示す。
「悪い騎士からの秘密のまいないだ。ずっと渡しそびれていたが、キリセで手に入れたものだ」
まだ少し涙ぐんでいたアンジェリークはくすくすと笑って、箱を開けた。
箱の中味は両手をかるく広げた大きさの正方形のごく薄い布で、淡い空色で少し透け、全面に小さな花の刺繍が散らされ、四隅には白いリボンで束ねられた花束が刺繍されている。もちろん花がスミレであることは想像どおりだ。

「すごくきれい…ありがとうございます」
「サキアの北部地方の特産の布にキリセで細工を施したものだそうだ」

アンジェリークは布を手に立ち上がり、部屋の中央へ行った。
「これはどう使うのかしら?ストールというよりヴェールにも見えるわ」
そういって首をかしげながら布を身体に巻き付けようと試みる。
ヒュウガも席を立ち、アンジェリークの少し後ろに回った。
「女性の衣服には詳しくはないが、今このときならこう使うのがよいのではないか」
そういいながら布を大きく広げてアンジェリークの頭からすっぽりかぶせると、自分も布の下に入り込み、彼女を素早く抱き寄せると深く口づけたのだった。


   

カルディナン・プレスへ