聖騎士クロニクル・2
洋上の銀


そのときの私たちは人生で一番ドラマティックな状況に置かれていました。
手に手を取ってサキアから脱出し、大陸に逃げだそうとしていたのです。

セチエ行きの船に乗り込むとき、列の中に教団員のローブを見つけた見知らぬ老夫婦は「幸先がよいことだ」と話し合っていました。
私と彼は、本物の教団関係者がいたら、巡礼者のふりをしているだけなのがばれてしまうのではないかとヒヤヒヤしながら、巡礼者のローブをさらに深くかぶり直すのでした。

その教団員は穏やかな笑みを湛えた50がらみのやや小柄な黒髪の男性で、5歳か6歳ぐらいの男の子を一人連れています。男の子は耳のところで揃えた銀の髪もそのきりりとした顔立ちも、男性に少しも似ていません。少なくとも親子連れではないようでした。
男の子は何か細長い大荷物を抱えていました。自分の背よりもよほど大きなその荷物を、持ってやろうとする男性の申し出を断って、大事そうに。

やがて船は港を出ました。幸い追っ手はもちろん、私たちの知人は誰もここにはいないようです。自分たちは知らないが向こうだけが知っている、という人がいたらやっかいですが、この船にいるのはサキアから大陸に「渡る」人よりも大陸に「帰る」人がほとんどのようでした。なので、これで船にいる5日間(当時はそれだけの日数がかかったのです)はこそこそしなくてもよさそうだ、と私も彼もほっと一息ついていました。あとは上陸時に先回りされなければ、私たちは無事に新しい運命に向かって歩き出すことができるのです。

巡礼者のローブを着けた人間が教団関係者を避けるのも不自然だと思って、乗船後すぐ私たちはその教団員に話しかけました。その人はにこやかに応対してくれます。シンとお呼びください、と付け足して。
「まだお若いのに聖都に巡礼なさるとは、すばらしいことです」
「ずっと自分をかわいがってくれた祖母の最期の願いを叶えるためなのです。ですから実は恥ずかしながら教団の教義も余りよく知らないのですよ」
「それはますますもって見上げたお心がけです。『巡礼者の手引き』でわからないことがあれば、どうぞ遠慮なくお尋ねください。わからないのは恥ずかしいことではありませんよ」
「ありがとうございます、シン様」

実際、祖母の最期の願いが聖都巡礼だったというのは嘘ではありません。今回、二人で大陸に渡ろうと考えたとき真っ先に浮かんだのはそのことだったのですから。ただ、その時点で祖母が亡くなってから十年近くが経過していたことを故意に黙っていただけです。

「よろしければ女王陛下と教団のお話をあなた方もお聞きになりますか?この子を聖都に連れて行くまでに、色々教えようと思っていたところなのですよ」
連れの男の子が軽く頭を下げました。少しばかり人見知りなのでしょうか。緊張しているのか、少し顔色がよくないような気がしました。

せっかく申し出てもらったのに、幸か不幸か、私たちがシン様から個人的に教義についての講義を受けることは結局ありませんでした。
もちろん、朝夕の祈りの時間になると自然に船に乗っている教団信者がシン様のところに集まり、皆で祈りを捧げ、時々はシン様による「宇宙」のお話を聞きます。それには参加していましたが、「男の子と一緒に女王陛下のお話を聞く」ことができなかったのです。というのも、男の子は船酔いがひどく、ずっと薬でまどろんでいる状態だったからです。

最初の日の夕べの礼拝のあと、薬がよく効いて眠っている男の子の隣で私は思いきって尋ねました。
「この坊やはシン様のお身内ではないようですが、一人で聖都に行くのですか?」
「この子は浄化能力を持っているのです。タナトスと戦う能力のある子供は将来銀樹騎士になるべく騎士団の中で訓練を受けるのですよ」
「こんなに小さいときから家族を離れて?」
「そうです。早くからの訓練が大切なのです」

初めて見た時は小さいのにしっかりしているという印象でした。でも、眠っているその姿はやはりほんの小さな子供です。あの強い光を宿した瞳が隠れているからでしょうか。そして自分がこの年齢の時は何をしていたのだろうかと思わず振り返ってしまいます。朝から晩まで遊び疲れるまではしゃぎ回っていた記憶しかないのがなんだか申し訳ない気がしました。
「小さいのに偉いのね」とその寝顔に思わずつぶやくと、シン様は頷きます。そして男の子の頭を撫でながら続けました。
「銀樹騎士に華やかな印象を持っている方も多いでしょうが、実際には過酷な戦いの日々を送らねばなりません。生まれついての能力があるからといって、こんな小さいうちからその未来を定められているのは、正直少しかわいそうだと思うときもあります。そんな運命にまっすぐ向き合ってくれる、騎士団の子供達は本当に偉いと思いますよ。そして、もう会えないかもしれないのに子供達をこの世界のためにと送り出してくださるご家族の方々にも私どもは頭が上がりません」

そういえば私自身、小さい頃っていうかほんの五年ほど前までは、銀樹騎士のお嫁さんになることにあこがれていたことを思い出しました。「銀樹騎士のお嫁さん」というのは、女の子にとっては結構ポピュラーな将来の夢ですが、実際にはそれがどういうことなのか、こうやって大切な人と駆け落ちするような年齢でやっと理解したのは自分でもどうかと思います。


お天気にも恵まれ、航海は順調でした。

明日はセチエの港に到着しようかという日。
突然「船主がお客様全員をお招きしてお別れパーティーを開きます」という連絡が乗客全員にありました。
サキアとセチエの間の連絡船でそういった行事があるなんて初めて聞きました。
旅慣れた商人とおぼしき人たちもしきりに首をひねっていましたが、船主からご馳走が振る舞われるという話に乗客は皆パーティーの会場たる食堂に集まったのです。
会場にはテーブルが並び、中央にはご馳走が並べられていました。
部屋の端にはちょっとした舞台がしつらえられています。司会役の船員が船主からのメッセージを読み上げたあと、「どうぞお好きな食べ物をとってご自由におくつろぎください。ただ、食べ物や飲み物を持ってこの会場からお出にならないように願います」と言いました。
どこからか、音楽が聞こえます。船にはないはずのピアノの調べまで混じっています。
「ああ、音楽を奏でるアーティファクトだね。噂には聞いていたが実物は初めてだよ。本当に楽団を招いたかのようだ」と隣のテーブルの誰かが感心したように言いました。
雰囲気を盛り上げるためなのか、カーテンは全部閉じられて、何かきらきらしたものが飾られていました。

しばらくすると赤いドレスを着た少しばかり恰幅のよい女性が舞台に上がり、歌い始めました。
それは幼い頃からよく聞いたわらべうたでした。


野の花の咲く道  おさなごたち迷いしとき
天のおとめたすけたもう
石中の緑 おとめの光をうけ
うるわしき花園に みなをみちびく

銀の波たゆとう海 おさなごたち迷いしとき
天のおとめたすけたもう
洋上の銀 おとめの光をかり
くろき雲なぎはらい みなをみちびく


「なんか久しぶりに聞いたな」と彼が言います。
「小さいとき歌っていたけれど全然意味がわからなかったことを覚えているけれど、今聞いてもよくわからないところがいっぱいあるよね」
「わらべうたのたぐいは概してそんなものだろう?」

間奏のあと、歌はまだまだ続きました。
私と彼ははじめはこわごわパーティーに参加していたのですが、懐かしい歌ですっかり気持ちがほぐれたのか、気がつくと歌の続きを一緒に口ずさんでいました。それでも一応目立たないようにずっと部屋の隅にいたのですが。そういえば、とシン様を捜すと、すぐそばの私たちがいるところより更に目立たない場所に座っていました。男の子はまだまだ眠いらしく、テーブルにもたれてうとうとしているようです。


舞台では先ほどまでの歌が終わり、代わって誰かが手品をしています。
皆の注目がご馳走と舞台に集まっている隙を縫うように、船の乗務員の一人がシン様に駆け寄り、耳打ちしました。シン様は難しい顔で首を横に振り、何か返事をしています。やがて乗務員がもう一人現れました。シン様は男の子をそっと揺すって起こしました。そしてまだぼんやりしている男の子に真剣な顔をしてなにか話しかけます。男の子がこくんと頷くと、二人は乗務員達と一緒に部屋を出て行きました。男の子の腕にはあの大荷物がしっかり抱えられています。それがずっと壁にもたせ掛けられていたことにその時初めて気がついたのですが。

会場を抜けた人たちは目立たないように行動していましたが、明らかに何か変です。
私と彼は目配せし合うと、そっと会場を出て後を追いました。

シン様たちは甲板に上がっていきます。さすがにその上まで追いかけていく勇気はなかったので、階段の途中で聞き耳を立てていました。

「で、タナトスは?」シン様の声です。
「あちらです。北西方向です」

タナトスが船の近くにいる!?

私たちは音を立てない範囲で最大限に急いで階段を下りると、北西方向が見渡せる窓を探し、カーテンの隙間から覗いてみました。陽が落ちたばかりの薄闇の中、特に変わったものは無いようでした。しかしじっと見つめて目が慣れてくると、なにやらひときわ暗い部分があり、更にその中にぼんやりと光るものがあります。悲鳴を上げそうになる私に、彼が抱きついて口をふさぎました。
「静かに!騒ぎになってはいけないだろう」と囁き声で叱ります。
「あれがそうなの?」私は床に座り込んで窓の外を指しました。怖くて力が抜けてしまったのです。
「しっかりするんだ。船長達を信じるしかない」
確かにその通りです。そして私たちは、あのパーティーがタナトスの出現で乗客達がパニックにならないように考えられたものであったことを悟ったのでした。
「タナトスってとにかく逃げるしかないわよね?」
「確かそうだったはずだ」
「この船は逃げ切れるのかしら」
「…信じよう」

そこで私たちはなぜシン様達が呼ばれたのかに思い当たりました。銀樹騎士でなくても、教団関係者は一般人よりはタナトスについて詳しいでしょう。
そして幸いなことに、この船には浄化能力者が乗っていたのです。まだなんの訓練も受けていませんが。

「シン様達はどうなさるのかしら?」
「能力者といってもこれから訓練を受けに行くところだし、あんな小さいし、なんと言ってもさっきまで船酔いでふらふらしていたわけだし」
「…様子を見に行きましょう!」
彼はまだうまく立てない私をおぶって、甲板への階段を半分ぐらいまで上がりました。そこから頭の半分だけ出して様子をうかがいます。さいわい、甲板の上の人々はこちらに注意を払う余裕がありません。

シン様は船首近くにいて、隣にいる男の子に何か説明をしているようでした。男の子は話を聞きながら頷き、荷物をほどいています。きれいな錦の袋の中の大きくて長いものは、一本の槍でした。

やがて男の子は船の一番先で長すぎる杖にすがるような姿で槍を持って立ち上がりました。
薄闇の中のはずなのに、潮風に舞う男の子の銀の髪と、やはり銀色の槍の刀身がなぜか光り輝いて見えます。その様子に、ついさっき会場で聞いた歌の一節、「洋上の銀」という言葉が自然と浮かびました。それはまさに、黒い雲をなぎ払うのにふさわしいたたずまいだったのです。

槍を手にした男の子のまなざしの先、ひときわ黒い闇がじわじわと近づいてきます。

船員達が小さな声で言い合っています。
「ありがたい、小さなタナトスのようだ」
「小さかろうがありがたいことはあるまいに」
「確かにそうだが、小さい方が浄化しやすいんじゃないか?」
「どうなんだろう、知らないや」
船員達同様、私たちも、タナトスは怖いものだと知っていても、それ以上のことを何も知らなかったことに、こんな土壇場で気がつきました。

「しかしあんな小さな子に何かあったらどうするんだ」
「どうやっても逃げ切れないとわかったんだから最後の手段ということだろ」
「これが失敗したらたぶんこの船は全滅だから、 『あんな子供を矢面に立たせた』って責めるやつもいないさ」

事態がそこまで緊迫していたとは。今この船の命運はあの男の子が握っているらしいのです。エセ巡礼者の私たちも、思わず目を閉じて女王陛下に祈りを捧げてしまうのでした。

「この場合どこにも逃げ場がないから乗客を避難誘導するのも不可能だしな」
「教団員と巡礼者がいるから女王陛下のご加護が普段より余分にあることを祈るよ」
「…オレ、これを生き延びたら教団に入信するよ」

そうこうしているうちに、闇は船のすぐ近くまで迫ってきました。嫌な気配が甲板じゅうに広がります。「伏せろ!」誰かが叫びました。その声に私たちも甲板の上から頭を引っ込めて、階段にしっかり掴まりました。船員たちが口々に唱える祈りの言葉が空気に満ちています。
小さい軽い足音がタタタと響き、ブンっと空気を切る音が数回。
タナトスのいる方に男の子が槍を振るったようでした。

どれぐらい経ったでしょう。
突然周囲が少し明るくなった気がしました。
もう陽はすっかり落ちて、暗くなっているのですが、先ほどまでの何とも不快な圧迫感が消えたのです。
と、ゴツン、という音、ドサリと何かが落ちる音。駆け寄る複数の足音。
「よくやった!」誰かの声。どこからともなく拍手が湧き上がりました。

「いや、たいしたもんだね、銀樹騎士っていうのは」
「あんな小さな子供なのにな」
ようやくそんな声が聞こえてきて、危機が去ったことがわかった私たちは、急いでパーティーの会場に戻りました。小さな功労者の分のご馳走がまだ残っているかどうかを確認するために。


しばらくそこで待っていたのですが、結局シン様と男の子は会場には戻ってきませんでした。私たちはなんとかかき集めた子供が好きそうな食べ物を持って船室にいるふたりのところに行きました。
床にはむき出しの槍。男の子は眠っています。特にけがなどはないようでした。

「途中で抜けられたようでしたので、坊やのご馳走だけでもと思って。坊やはまだ気分がよくないのですか」
甲板で起きたことなど何も知らない振りをして、私たちは今日の隠れたヒーローを見舞います。
「ご心配をおかけしましたね。今はまた眠っていますが、目が覚めたらいただくことにしましょう。ああ、蝶の形の点心がありますね。きっと喜びますよ。ありがとうございます」
「あの、シン様」
「なんでしょうか?」
「この子の名前を教えてもらえませんか?」
「ああ、お教えしていませんでしたか?自分でちゃんと名乗って挨拶するようにと言っておいたのですが、そうですか、まだできていませんでしたか」
「船に乗ってからはほとんどお薬でうとうとしていましたしね。それに、小さいのにとてもしっかりしていますが、人と話すのは苦手に見えます」
「たしかにそういう性分なのでしょう。ええ、この子はヒュウガというのですよ」
「ヒュウガ君、ですか」
「ええ」シン様は穏やかな表情でヒュウガ君を見ています。「銀樹騎士ヒュウガ、といった方がいいかもしれませんね」
「小さいけれど立派に騎士なんですね」
「船酔いはしますけれどね」三人で顔を見合わせて笑ったあと、私たちは部屋を辞しました。

翌朝、船は予定通りセチエに着きました。ファリアンに向かう私たちは、セチエの村の教会に数日滞在するというシン様たちと別れました。ですから私がお話しできるのはここまでです。

その後、そうですね、10年近く経ってから、私たちはやっと本当に聖都に参詣したのです。教団にはファリアン郊外に落ち着いてからすぐに入信したのですが、巡礼の余裕はなかったので。娘を三人次々に授かったものですから。

実は私たち夫婦は、男の子が生まれたら「ヒュウガ」と名付けようと決めていたんですよ。
でもそれがかなわなくて、今となってはよかったと思っています。
私たちごときの息子と、聖騎士様が同じ名前なんて、あまりにも畏れ多いことですからね。(談)



語り手:ファリアンの衣服店「モード・サキアン」の経営者夫人。              
     かの店の商品の東方のテイストを取り入れたデザインは熱心なファンが多い。

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