聖騎士クロニクル・1
スミレの精霊


ご存知かも知れませんが、東方の女王信仰は、大陸のそれとはずいぶん趣を異にしています。
女王以外のものに対する信仰が、女王に対するそれと対立することなく奇妙に並列しているのです。
それは大陸の常識では考えられない、と感想を漏らすと、「女王陛下への信仰とは全然関係がないはずですが」とあちらも困惑の表情を向けるのです。

教授のフィールドワークの助手としてキリセに行ったのは、かれこれ17・8年前でしょうか。
東方サキアでも更に特色のある独自文化を持つキリセ。キリセでも女王が信仰されていますが、アニミズム的な原始信仰も同時に盛んです。とくにその当時はまだ女王どころか女王の卵も出現していませんでしたので、女王信仰はかなり影が薄かったと思います。

その時取材したのは春の祭でした。
雪の冬を経て春が来た喜びを、早春にたくましく可憐に咲くスミレに託したのが源なのでしょう。いつの間にかスミレの祭ということになっています。村の古老をはじめ、祭を施行する側の人は、我々に「女王にスミレを捧げる祭」だと説明するのですが、それ以外の一般の民にインタビューすると、「幸福を守る存在たるスミレに感謝と祈りを捧げる祭」なのだと教えてくれるのです。

祭が行われる場所は、その名もスミレの谷と呼ばれている場所でした。キリセの集落からは少し離れた谷間で、谷の最奥は神域となっているようです。
谷の入り口に一軒の家があり、そこには守人と呼ばれる、この神域を管理するものが家族と住んでいます。職業神官ではなく、他に職業を持ちながら、代々神域の管理人を務めているのです。キリセで聞くと、村の中でも一番の名家の、跡継ぎでない子どものひとりがその任に当たるようでした。
谷最奥部の神域の入り口には外の世界と区切るように独特の形状の門が立てられています。そこからしばらく奥に進むともう一度区切りがあり、数段の階段を上った先に小さな拝殿があります。拝殿より奥は、人が入ることは許されていない、禁足地になっています。拝殿から見えるのは、小さな森とその手前の陽だまりです。陽だまりにはスミレが群生していました。拝殿から人々が祈りを捧げるのは、この小さい森に象徴される土地の精霊そのものなのです。

拝殿への階段の下右手には舞殿とは名ばかりの小さな舞台があります。普段は子供達がよじ登って遊んでいる様子ですが、祭の時はここで舞を舞って、土地の精霊に奉納するのです。

春の祭では奉納される舞は数種ありますが、主なものは以下の3つでした。
鈴の音で四方を清浄に浄める舞。
子供達による剣舞。
笛太鼓の演奏を伴う、数人の乙女による神楽舞。

祭の2日前に到着した我々は、舞の練習を見学する許可を得ることができました。
その動きも、テンポも、どれも大陸にはないものです。正直言葉としては聞き取りにくい詩の朗唱も、一種独特の不思議な音楽として舞を盛り上げます。
剣舞の舞手のひとりがたいへん幼いのには驚きました。守人の長子だそうです。実際舞い始めると、大きな剣を危なげなく扱うその巧みさに更に感服したものです。練習が終わって話しかけてみたのですが、年かさの二人とは違ってこの幼子は人見知りなのか、頷いたり首を振ったりはするものの、その声を聞くことは叶いませんでした。

さて祭の当日。祭は夕焼け空のもとに始まります。この日のスミレの谷は春を迎えた華やいだ心と、神聖な場所に対する畏敬の念とが入り交じった場所なのです。
谷の入り口近くから神域の途中まで、小さな露店がずらりと軒を並べ、子供達のはしゃぐ声がこだましています。大人たちは軽く会釈して挨拶を交わし合っています。
人々ははじめの門をくぐり、露店を冷やかしながら進み、次の門をくぐって階段を上り、拝殿で祈りを捧げます。
そのあと、ほとんどの者はそのとなりで縁起物のスミレの飾りやお守り札などを買い求めるのです。

拝殿からは禁足地を埋め尽くす勢いで咲くスミレの花が見えます。禁足地の外にもスミレはこの地のあちこちで花を咲かせています。それに加えて、人々は衣服に髪にスミレの造花を飾っているものですから、谷間一帯はスミレだらけです。

舞殿のまわりには、祈りを済ませたたくさんの人々が詰めかけて舞の奉納が始まるのを待っていました。
教授と私たち助手がたくさんの人に話を聞き、写真を何枚も撮っている間に、舞が始まりました。

陽は既に落ち、舞殿はかがり火に浮かび上がっています。

神官らしい装束をまとった守人が舞台中央で鈴の付いた錫杖を振りました。
しゃん、と響くその音と共に辺りは水を打ったように静かになりました。ぱちぱちとはぜる火の音がかすかに聞こえ、鈴の音は辺りに響き渡ります。
そのまま、髪にスミレの花を挿し、淡いスミレ色の衣装を身にまとい、手に鈴を持った少女4人が舞台中央に上り、舞台四方に向かって鈴を一定間隔で鳴らしながらゆっくり進みます。舞台の端に着いた4人は、鈴を細かく振り鳴らしながら天を仰ぎ、そのまま鈴を手にゆったりと舞うのです。
一通り舞終わった少女たちが引き上げると、舞台袖で古老による詩の朗唱が始まります。よく響くいい声です。詩の内容はあまり聞き取れないのですが、春の恵みを与える存在――守人によるとこれは女王を指すそうなのですが人々はスミレの精霊だと思っているようです――を褒め称えたものだそうです。

一節目が語り終えられたタイミングで、白い衣装に濃いスミレ色の帯を締め、大きな剣を携えた三人の子供達が緊張した面持ちでしずしずと舞台に上り、剣を構えます。年かさの二人は黒い髪を短く刈り込み、幼い一人は銀色の髪を耳の下で切りそろえていました。緊張のせいか、皆紙のように白い顔色です。
更に一節が語り終えられると、三人はゆるやかに舞い始めました。自分は練習を見ていたので知っていますが、このあと、どんどんテンポが上がり激しいものになっていくことなど、この時点では見当も付かない事にちょっと感心しつつ、写真を何枚か撮りました。

ところが、子供達が舞い始めて三分も経たない段階で、突然、詩の朗唱が途絶えました。
朗唱していた老爺は観客の後ろを指さして、腰を抜かして座り込み、口をぱくぱくさせていました。
観客は一斉に振り返ります。
指の差す方向には、タナトス。

当時タナトスはあまり人のいない場所にごくまれに出現するものでした。
スミレの谷は確かに普段守人の一家以外は人がほとんどいませんから、たしかにその出現条件に合っていたのです。

一瞬にして祭の華やぎは吹き飛ばされてしまいました。
タナトスは周囲のスミレをすっかり枯らしながら、神域に近づいてくるところでした。
神聖な場所ならタナトスからも助かると考えたのか、拝殿の方に向かって人々は悲鳴と共に逃げまどいます。

皆が騒然となる中、舞台の上の一番幼い子どもが、大きな剣を手にしたまま、舞台から飛び降り、そのまま駆けつけて夢中でタナトスに斬りかかりました。無茶です。

周囲の大人たちは、止めなければ、と思いつつ身体が動きません。恥ずかしながら私も同様です。
タナトスと戦うことができるのは銀樹騎士だけだというのに。おまけに、あの剣は剣舞用のもので、殺傷能力などカケラもないのです。

ですが、奇跡が起こりました。

彼がよろけながらもふるった剣はタナトスを捉え、剣を突き立てられたタナトスは消滅したのです。
この目で浄化能力者がタナトスを浄化したのを見たのは、あれが初めてでした。
タナトスを倒した子どもは呆然と、地面に突き立てた大きな剣に寄りかかり、立ちつくしていました。
タナトスがいなくなったことを示すように、枯れていたスミレは見る間によみがえり、再び花を咲かせます。
周囲のものもしばらく動くことができませんでしたが、やがて歓声と拍手が沸き起こりました。子どもは緊張が解けたのかその場に崩れ落ち、その母らしき女性に抱かれて神域の外へと消えました。

白い装束にすみれ色の帯を締めて舞い、また勇敢にタナトスに立ち向かい戦うその姿は、この地の人々がスミレに対して抱いているイメージを幾重にも重ね凝縮するようでした。
小さく可憐な姿だが、魔を退け、人々の幸福を守る、と。
キリセの人々の素朴な信仰を集めるスミレの精霊というものが実在するとすれば、きっとあのような姿なのに違いありません。

結局私たちは、春の祭だけではなく、タナトスとの戦いまで取材してしまうことになったのでした。

その後取材の成果を発表し、他の研究と合わせて「東方の自然信仰」として刊行した際、あのときの「スミレの精霊」の消息を、サキア出身の学生が教えてくれました。浄化能力がある者として銀樹騎士団に引き取られたそうです。
スミレの精霊はスミレの谷に置いてこそではないか、と、ちょっと複雑な思いでそれを聞いたことを覚えています。

それから十数年、私はスミレの谷での出来事をすっかり忘れてしまっていました。すべてを思い出したのは、女王陛下の即位式で陛下のすぐ隣に控える聖騎士の横顔を新聞で見たときです。

そして、やっと理解したのです。あの春の祭のスミレの花は、本当に女王陛下に捧げるものだった、と。

あの地のスミレの精霊が、今や女王の隣でアルカディアじゅうを守る存在になっているのですから。

筆者紹介:カルディナ大学准教授。専攻は宗教人類学。


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