(You don’t need) Nothin’ to be Free       by みかん様



白亜の宮殿の一室で。
窓辺に立って、翡翠色の眸は遠い空を眺めていた。
城壁の外側の世界に目を向けたくても、高すぎる壁に阻まれて、人々の動きを見ることすら叶わない。

――― まるで、牢獄みたい……、
この白亜の宮殿の一人娘である、アンジェリークはぼんやりとそんなことを思う。

窓を開けると心地よい風が、外から流れ込んでくる。
風は柔らかい金色の髪の毛を揺らす。
頬を擽る髪の毛を感じながら、宮殿を抜け出したたった一日のことを思い出す。

――― ゼフェル……、もう逢えないのかな、

一年前、こっそり抜け出して向った市場は。
アンジェリークの知らないことばかりだった。
そこで出逢った紅玉の珠よりも、深い紅を携えた眸を持つ少年。
彼は、無知のアンジェリークを助け出してくれた。
アンジェリークは翡翠色の眸をそっと閉じて、一年前に思いを馳せる。

初めて見る“市場”と言う空間で。知らぬ間に、変な男達に絡まれてしまった。
毅然とした態度で、追い返そうとしたのだが。それが余計に拙かったらしい。
周りの者は誰も助けてくれなかった。
そんな時颯爽とアンジェリークの腕を取ってその場から連れ出してくれたのが、紅玉の眸の少年―――
ゼフェルだった。

※※※



逃げ出すためとはいえ、突然手を引かれて驚いたのは事実である。
「何をするの? あなたはっ?」
アンジェリークは、力強く手を引っ張ている相手に、なめられないように力強く言い放つ。

「黙って走れよっ。アイツらに捕まんぞっ、」
浅黒い力強い手に、ぐいぐいと引っ張られながら、アンジェリークは後ろを振り返る。
すると、男達が赤い顔をして追いかけてくる。
背筋が凍りそうなほどの恐怖に襲われる。
が、同時に手を引いているこの男の正体もわからない。

――― もしも、この男がアイツらの仲間だったら? もしアイツらよりもタチが悪かったら?
アンジェリークは、息が切れそうなほどのスピードで手を引かれ走りながら、そう考える。

「あなたは?」
切れ切れの息で、もう一度問う。
「悪いようにはしねぇよ。だから、オレを信じろっ、」
未だ、前を真っ直ぐ見据える赤い眸。その力強い眼差しを。
何故だか、無性に信じたくなって、彼の足手まといにならないように、必死で足を動かした。


細かい路地を何度も何度も曲がり、大分走ったあと大きな木の根元で彼は止まった。
「はぁはぁはぁ、こ、ここまで来りゃ、大丈夫だろ、」
二人は、一本の木の下に寄りかかるようにして座り込む。

――― はぁ、こんなにめちゃくちゃに走ったのは、産まれて初めてかもしれない……
足が言うことを利かず、くたくたで思わず地面に座り込んでしまった。
そんなアンジェリークの傍らで、その少年は呼吸を激しくしているだけで、平気そうに見えた。
アンジェリークは暫く、自分の呼吸を整えるのに精一杯だった。
横に居る彼はすっかり平常モードに戻っているようだった。何やら、もそもそと動いている。

「ほらよ。」
少年は、オレンジ色の果実をアンジェリークに投げ渡す。
「え?」
放物線を描いて飛んでくるその果実を、アンジェリークはなんとかキャッチする。

「全力疾走したから、ノド渇いたろ?」
そして少年も自分の分の実を、木から毟り取る。
「んだよ?」
アンジェリークは、不思議そうな顔をして彼と果実の両方を見比べている。
「これ……、どうしたの?」

「あぁ?」
少年の左眉が思い切りあがる。どうやら不快の言葉だったようだ。
「見てなかったのかよ? この木の実だぜ、」
少年は、寄りかかっている木を叩く。
――― 木の実?
アンジェリークは吃驚した。普段食べている果実が木に実るのは知ってはいたが。宮殿ではそんなことをしたことがなかったのである。取る食事といえば、シェフが拵えたもの―――。

「毒なんて入ってねぇから。安心して食えよ、」
そう言って、彼は自分自身の手にとった果実にかぶりつく。
その様子が、何故だかアンジェリークの世界観を変えた。

「貴方を信じます、」
そう言って、自らも口を大きく開ける。
口に広がる、甘酸っぱい爽涼感。渇いた咽喉を潤していく。

「……美味しいっ、」
「だから、言っただろ?」
くしゃりと顔を崩して笑った少年。

――― あ……。

初めて正面から捕らえた彼の顔。
何故だかアンジェリークは鼓動が高鳴るのを感じていた。
それから、いろんなことを聞いた。この市場のこと、城下町のこと……。
少年はぶっきらぼうながらにも、ひとつひとつきちんと答えてくれた。
その空気が暖かった。宮殿では感じたことのない雰囲気だった。


※※※


――― でも、そんな楽しい時間もすぐに……。
アンジェリークを迎えに来てしまった、近衛兵。
――― 結局、私の名前を告げることができなかった。
何度も、思い出されたこの記憶。
リプレイされるたび、アンジェリークの心を抉っていく。
壊された時間。二度と過ごせないであろう時間。
もちろん今日も洩れることなく、アンジェリークを悲しみの中に落とした。
あれ以来、警備がきつくなり、脱走なんて簡単に出来なくなっていた。

大きく息を吐く。
この記憶は、ひと時の倖せと、その後に譬えようのない哀しさを連れてくる。
それでも、ひと時の倖せが欲しくて思い出してしまう。
そのあとに訪れる哀しさを、なかなか振り切れないのに……。


トントントン。
アンジェリークの部屋の扉がノックされる。
「はい、」
目は空を見つめたまま、短く返事だけ返す。

「アンジェリーク様、国王がお呼びです。」
扉の方から、声が聴こえてくる。
不快感を顔一杯に表し、大きく息をつく。
――― 昨日聞いた、あの来賓者だわ、

最近、この宮殿に来賓者が多くなった。アンジェリークと同じ年の頃の。
それは、暗にアンジェリークの夫選び、を示していた。
――― あんな法律なんかっ!彼に逢いたいのにっ!
何度国王である父に向っていっても、軽くあしらわれてしまう。

再び、扉の向こうから声が聞こえる。
「アンジェリーク様?」
「解かりました。今、行きます」

アンジェリークは窓を閉めると同時に心にも蓋をして扉を出て行った。


「ほら、しっかりしてくださいよ、」
ゼフェルの脇で、執事役に扮しているルヴァが小声で言う。

あんなに憧れていた白亜の宮殿の中にゼフェルは居た。
目の前には、国王なる人物。改めてじっくり見ると、きらきらと派手である。
化粧を施し、髪は長い。一筋、紫色や緑色が存在しているが、金色の髪はアンジェリークと同じである。

「待っててねぇ。もうじき娘もやって来ると思うから☆」
ニコニコ顔の国王。どうやら、土産として持参した鉱石がたいそうお気に召したようだ。


ゼフェルは二つ目の願いとして、ルヴァにアンジェリークともう一度逢うことを願った。

まずルヴァが本から取り出したのは、二着の服と。
金銀豪華な宝石の類。それと、珍しい石を数個。
それらを持って王宮に訪ねることになった。立派な衣装を着て、身支度を整えて。
とある富豪のゼフェル。そのお供の執事ルヴァの出来上がり。
そして今に至るのである。

――― 落ち着け、落ち着け……

ゼフェルは、心の中で念仏のように唱える。まぁ無理もないことだろう。
何度、夢に見ただろうか。もうじき、あの翡翠の少女と逢えるのだ。
ゼフェルは、一年分の想いを胸に、ただその身体を強張らせていた。

そこへ、家来のようなものを連れて、一人の女性が歩いてくる。
ルヴァが、ゼフェルの身体を前に押しだす。
「ほら、彼女ですよ、」
「そんなこと、言われなくても解かってる、」
ルヴァとゼフェルの小声のやり取り。

――― 解かってんだけど、どうしたらいいのか……、
いざとなると、巧い言葉も見つからない。
そうこうしているうちに、すっかり女性らしくなったアンジェリークは国王の隣にならんだ。

「ようこそいらっしゃいました。私はこの国の王の娘、アンジェリークでございます、」
しゃなりと腰を落としたアンジェリーク。
その顔はゼフェルの記憶にある、あのあどけない少女と違っていた。
1年、歳を重ねた分だけ女性に近づいた……などという外見的なことではない。
その表情に生気がないのだ。―――まるで、人形のように。
そのあまりの違いぶりに、ゼフェルは更に言葉を失う。

――― 逢えば、なんとかなると思ってたんだ……、
逢えばゼフェルは彼女との隔たりも何もなく、話し出すことが出来ると思っていた。
ところが、どうだろう。この彼女の豹変振りは。

アンジェリークは、落とした腰を上げてゼフェルをしっかりと見据えた。
彼女は一瞬訝しげな顔をしたが、直ぐに硬い表情に戻る。
誰も、何も受け付けないと言った表情に。

「ごめんねぇ、この子ってば最近愛想が悪いのよぅ、」
一人きゃらきゃらと笑う国王。

「はじめまして、姫君。私達は隣国からやってきました。こちらは私の主人のルフェゼです、」
用意してあった挨拶をルヴァが諳んじる。

「ルフェゼです、」
ゼフェルは、偽りの名で挨拶をし、頸をかくんと下げる。

――― こんなアンジェを見たかったわけじゃねぇ、
ゼフェルは心の中で叫ぶ。
なんとなく気まずい雰囲気が、応接の間に漂い始めたとき。
その雰囲気を打ち崩したのは、アンジェリークだった。
屹然とした眸と声で、ゼフェルを見据えてこう言った。

「申し訳ありませんが、私はどなたともお付き合いする気はございません、」

ゼフェルは目を大きく見開いた。
アンジェリークの力強い翡翠色に射竦められていた。
「アンジェリークっ、なんていうことを言うんだいっ!」
声を荒げるのは、今まで悠長に座って扇を仰いでいた国王。

「お父様っ、何度も申し上げているでしょうっ?!」
アンジェリークは、視線を国王に向けて大声で叫ぶ。
「私は赦さないよ、」
静かに強く威圧する声で、国王はアンジェリークの発言を拒否する。

ゼフェルは目の前の光景の展開の早さに驚いていた。
一人おろおろしだしたのはルヴァ。
「喧嘩は、いけませんよ〜、」
などと、今の立場を忘れて助言を始める。

「あんな法律なんかっ。お父様は私の気持ちなんか全然わかってないっ、」
客人がいることも忘れ、アンジェリークは叫び散らす。
「私は、常にアンタの倖せを祈ってるんだけどねぇ、」
国王は静かにそれでも絶対の権力を込めて、この会話を終わらせる雰囲気の一言を放つ。

一方、肩を震わせて感情の激しさに耐えているアンジェリーク。
「お父様のバカっ!」
叫んで、もの凄い速さでこの場を去っていくアンジェリーク。

ゼフェルは、目の前で起きた事態に上手に対応しきれずにいた。
暫くたって、国王が大きな溜息をつく。
「ごめんねぇ、あの子の機嫌が悪いときでさぁ。このままでもなんだから、今日は泊まっていってよ、」
そう言って、傍らにいた執事になにやら耳打ちをしている。
国王の指示があったのか、執事はするりとルヴァの横にたち、その右手を前方に向って差し出した。
「お部屋へご案内いたします、」
そう言って。
ゼフェルとルヴァは顔を見合わせてから、その彼についていった。


「いやぁ、吃驚しましたねぇ、」
二人になった途端、ルヴァは口を開く。
通された部屋は立派なものだった。
今までゼフェルが想像していた宮殿の内装を、越えるほどに。
「……でも、アイツらしかった、」
ゼフェルは、ぽつんと呟く。ほんの少し安心したように。

ゼフェルが逢ったアンジェリークは、感情のままにくるくると表情を変える少女だった。
ゼフェルとの間に交わされた挨拶のような、鉄面皮の女性ではなかったのだ。

ルヴァは柔らかく微笑む。
「さて、それではどうしましょうかねぇ?」
ゆっくりと腕を組みなおす。

ゼフェルは驚いた顔で聞き返す。
「“どうしましょう”ってどうすんだよ? さっき拒絶されただろ?」
ルヴァは、呆れたような顔をする。
「ゼフェル、あなたはもう諦めてしまうんですか? ……1年間ひとときも忘れたことなかったのに。」
ゼフェルは、心を言い当てられて、身体がびくりとする。

「なんで、知ってんだよ?」
ルヴァは含み笑いをするように。
「これでも、ランプの精ですからね。……ほらシャキっとして、」
そう言って、ルヴァはゼフェルの肩を叩く。
「逢いたかったんでしょ?」

その問いにゼフェルは、自分の心を見つめる。
ゆっくりとした言葉で、もう一度ルヴァが問う。
「一年間、忘れることなく。何よりも、誰よりも、」
ゼフェルは、ゆっくりと大きく頸を頷かせる。そして小さく
「あぁ、」
と呟いた。


「法律ってなんなんですか? あなたたちは随分、それに捕われているようですけど、」
ルヴァが突然、話の矛先を変える。
「あぁ、国王が発布したんだ。“一国の娘の夫となるものは、王族もしくはそれに筆頭する位にあるものに限る”
ってな。おまけに面会するには条件があって“王族・貴族・大富豪”のみ、」
ゼフェルが、ゆっくりと噛み締めるように言葉を吐き出す。

「だから、大富豪だったんですね、」
ゼフェルが二つ目の願いごととして唱えた言葉を思い出しているのだろう。
ルヴァが苦々しい表情を浮かべる。
「……法律は、何かを縛るためのものじゃないんですけどねぇ、」
ルヴァは小さく、呟く。
「なんて言った?」
ゼフェルは、小さすぎて聞こえなかったルヴァの囁きを聴き返す。

しかし、ルヴァはその問いには応えずに、殊のほか声を大きくして言う。
「さぁ、コレをお貸ししましょうっ、」
ルヴァは、自分のターバンに人差し指を持っていき、触れたかと思うとなにやら妙な言葉を紡ぎだした。
そして、ゼフェルの目の前に白い霧がもわもわっとたちはじめる。

「これはサービスですよぅ、」
ルヴァがそう言ったと同時に、ゼフェルの目の前には綺麗な織物が現れる。
金や銀の細かい刺繍が幾重にも重なって織られている絨毯だった。
あっけに取られているゼフェルの目を覗き込んで、茶目っ気のある眸でルヴァは呟いた。
「魔法の空飛ぶ絨毯ですよ、」
いとも楽しそうに、ルヴァは言う。

なるほど、確かに目の前に現れたその絨毯は、ふわふわと地面から浮いていた。
「どうやって乗るんだよ?」
ゼフェルは、恐る恐る絨毯に手を伸ばしながら、ルヴァに尋ねる。
「普通に乗ればいいんですよ。あとは感覚で。貴方なら直ぐに乗りこなせますよ、」
にっこりとした笑みとともに返ってくる答え。

ゼフェルはゆっくりと、その足を絨毯に乗せる。足元が柔らかくて、水の中にいるような感触だった。
「膝を使って、絨毯に意志を伝えながら……。そう、そうやって乗りこなすんですよ〜」
ルヴァはいとも簡単そうに言うが、ゼフェルは必死である。
「うわぁっ、」
急に上昇を始めた絨毯に驚きつつ。
ゼフェルはゆっくりと、絨毯の手ごたえを確かめて乗りこなしてゆく。

「―――コツ解かったぜ、」
そうゼフェルが呟いたのは、五分くらいたった後だろうか。
「それじゃあ、」
ルヴァはにっこりと、微笑む。
「あぁ、」
ゼフェルも、口の端をゆっくりと上げて返事を返す。
「行ってくる、」
言うが早いか、ゼフェルは部屋の窓から、外へ飛んでいった。
「いってらっしゃ〜い、」

ルヴァの呑気な送り声は、ゼフェルの耳に届いたのだろうか。
ルヴァの視界には、もう既に小さくなっていく絨毯の姿しか見えなかった。
ゆっくりと窓の傍から離れる。

「さて、私はこれから最後の助言でもしましょうかねぇ、」
そう呟くと、ルヴァはゆっくりと宛がわれた部屋を出て行った。


           


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