三文字の漢字で三十のお題・05「堕天使」
おかえり



小さい頃からのお隣さん、ラケルちゃんが引っ越していって半年が過ぎた頃、跡地で工事が始まった。わたしは、あのたいそう大きくて立派だった家が無くなってしまうのがとても悲しかったけれど、弟は初めは間近で見る「はたらくじどうしゃ」たちに、ついでみるみる新しい家が建っていく様子と大工さんたちの仕事ぶりに、心を奪われているようだった。ま、8歳男子なんてその程度だわね。

はじめはなんとなく気に入らないと思っていたわたしも、そのお家ができあがっていくのが気になって仕方なく、最終的には夢中になっていたと思う。毎日毎日窓辺に貼りついて、お家ができあがる様子を眺めたり、運び込まれる資材の正体について考えたりしていた。
ラケルちゃんのお家だったところとそのお隣の空き地との二軒分を使った広い敷地の割にはこぢんまりしたお家。沢山の木や花壇と小さな温室。広い庭の片隅の小さなベンチ。とってもかわいらしいのにどこか厳かなたたずまいのその家には、どんな人が住むのだろう?

わたしはありったけの想像力を駆使して考えた。そして、悪い継母(もちろん正体は魔女だ)に命を奪われる寸前に助け出された、美しいお姫様がひっそり住むのにこそ、この家はふさわしいと結論づけたのだった。
もちろん、姫君はこの家で王子様が何もかもを解決してから迎えに来るのを待つのだ。

やがて内装が整い、家具が運び込まれた。わたしの部屋からちらりと見たそれらは物語の中のお姫様の持ち物としてとりあえず合格かな、という感じだ。わたし的には地味すぎるのが少し不満だが、ひっそり隠れるのならこれぐらいで我慢しなくてはね。
母さんが噂を仕入れてきた。主星の大貴族のお嬢さんが社会勉強のためにそこに住むのだと。
主星。ものすごく遠いところにある華やかな星。そして、貴族。本当にそういう人っているんだ。お話の中だけじゃないんだな。
「社会勉強のためにって言ってあんな広い家まで建てるとは。上流階級って、あるんだねえ、あるところには」と父さんはため息をついた。

どうやらわたしの空想はかなりの部分で現実になってしまうらしい。
今のところ悪い魔女については全然情報がないけれど、お姫様は本当にいて、しかもお隣に住むのだ。
こんなドラマティックなことが自分のまわりに起こるなんて、モードリン・スミス12年の人生の中では初めてと言っていいと思う。


 2


ほぼ同時期にサクリアが衰えはじめたのを知った時はその恵みに胸が震えた。
けれどサクリア歴数年の自分と二十余年の向こうとでは残滓の量というのかサクリアの余力というのかが桁違いだったらしく、結局新しい女王試験が終わっても新しい闇の守護聖は発見されなかった。

女王補佐官アンジェリークはこの機にかねてから交際していた守護聖と正式に結婚して、そのまま聖地に住むことを選んだ。
だが、私はその道を選ばなかった。

別に誰に反対されたわけでもなかった。
女王のサクリアを失いはじめ、すべてが崩れていくような不安の中、この閉ざされてた狭い世界の中で育てた恋が、はかない陽炎のようなものではないかと思われはじめたのだ。一旦疑いはじめると、あれが世間で恋と言ってもらえるかどうかもわからなくなり、とてもじゃないけれど大胆な選択はできないと思ったのだ。
少なくとも自分にはゆっくり考える時間が必要だと。

ひとりで聖地を出る、と告げたとき、クラヴィスはただひとこと「そうか」と言っただけだった。
悩み抜いた結論に対してのあまりにもあっさりとした返事は更なる不安に私を追い込み、同時に自分の選択は正しかったのだとも思った。

もとよりアンジェリークたちのように公然とパートナーとしてふるまったことはない。私の立場もあったし、彼もそうは望まなかった。
なにより、少なくとも私はそれでもじゅうぶん満足だったのだ。あの暖かな闇を感じていることが。


 3


お姫様は大学生ぐらいに見えた。

お引っ越しのご挨拶に我が家にみえたとき、わたしは部屋にいたままだったのがとても残念だ。でも、いつも窓越しにお姫様の様子を眺めるのが私の日課になった。

いつ見ても、そのたたずまいの優雅なことはもちろん、まだ若いのに威厳さえ感じられる様子は、本物の姫君のそれだと思った。
あの姿勢の良さ。立ち居振る舞いの美しさ。何より、本当に美しい人なのだ。
自分の部屋の大きな窓がお隣の方を向いている事にこれまでこんなに感謝したことはないと思う。

お姫様の暮らしぶりは全然姫君っぽくなかった。引っ越し直後は何度かお知り合いの方がお手伝いに来ていたようだけれど、あとは何でもご自分でされているようだった。お買い物も、お掃除も、お庭仕事も。
 なんだかお姫様とはちょっと違うな、とわたしは思ったけれど、両親は
「若いのにえらいわよね」と言っていたので、それがふつうの考え方なのだろうと思った。



そして、ほぼひと月が経った頃、我が家に彼女をお招きすることになった。「満を持して」、というのはこういう感じなのだと思った。


その時玄関先で知ったお姫様の名前はロザリア・フェリシアス。テーブルに導きながら父さんが早速つっこむ。

「フェリシアスさん、そのお名前は、やはりこの地の神官の血筋とご関係が?」
「ええ。ごく遠い親戚だそうですわ」
ああ、と父さんはものすごく納得した顔で頷いた。

ここフェリシアは小さな星で主星からも遠く離れているが、前女王陛下の特別の力が注がれた星とのことで、主星なみの規模の大きな神殿がある。主星のお嬢様がわざわざやってくるのはなにか奇妙な感じだと思っていたけれど、親戚がいるのならつてを頼って、ということもあるよね、とこれまで読んだたくさんの物語に似た話がなかったか一生懸命考える。ふと見ると弟もなにやら考え込んでいる。珍しい。

「そうだ、やっとわかった、青の天使に似てるんだ!」と突然弟が叫ぶ。

ああ、確かに。美しい紫紺の髪も、意志の強そうな目も、あたたかく微笑む口元も。
教科書で見た「青の天使」と呼ばれるこの星の大神殿の礼拝堂入り口に掲げられたタペストリーに織出された天使の姿によく似ている。
「まあ。光栄ですわ」恥ずかしそうに少し目を伏せるとますます似ているような気がする。本当に、きれい。近くで見ると、よりいっそう。

父さんがこの星の天使信仰について説明すると身を乗り出して聞いていた。
宗教ナントカ学が大学での専攻なのだそうだ。父さんの喜んだこと!

「文明のある星には神殿と王立研究院は必ずあります。ですが、その中味や、人々との関わりは星々によって同じではない、と聞いていました。
その意味がこれまでよくわかっていなかったのですが、先日ここの神殿に初めて行って、主星のそれとは全然雰囲気が違ってびっくりしました」

「確かに主星からいらした方は、ここの天使信仰には驚かれるようですね」

「ある程度は勉強してきたつもりだったのですけれど、全くもって勉強不足でしたわ。そういえば守護聖さまについても星によって解釈が違うとか」
「星によってどころか」

父さんは本棚に駆け寄ると分厚い本を取り出した。とうとうスイッチが入ってしまったのだ。父さんにこの手の話をさせると長い。
父さんはただの高校教師だが、小さい頃から王立研究院にはいることに憧れて、一生懸命勉強していたのだそうだ。研究院の試験に「宇宙生成学」さえなければ今頃は研究員だったはずだと、酔っぱらうたびに愚痴っている。
そして今でも個人的に研究は続けているというわけだ。

「たとえばこういった護符は闇の守護聖の加護を受けるためのものとされますが」と紫の菱形をした護符の図を見せる。
「私の育った地方では、これは布で作られ、主に赤ん坊を泣かさないお守りとされていました。ですが、妻の育った地方では木片で作られ、死人の棺に入れる、死出の旅の道しるべとされていたそうです」

「安らかな眠り、ということなのでしょうけれど、確かに差がありすぎますわね」
くすくす笑うその様子も優雅で、わたしはうっとりして眺めていたのだった。


でもこの12歳という中途半端な年齢が、彼女のことをもっと知りたい気持ちの邪魔をする。
わたしはしかたなくおやすみなさいの代わりにぺこりとお辞儀をすると、彼女の頬にキスをして部屋を飛び出したのだった。


 4



私の新しい生活はフェリシアで始まった。生家は気が遠くなるほど代替わりしているし、主星に住みスモルニィに関わるという過去の女王たちに多かった選択も何か違う気がしたのだ。
なので結局フェリシアに幾ばくか残っている聖地領の一部を払い下げて貰って、そこに家を建てることになった。新しい名前はロザリア・フェリシアス。ちょっと収まりが悪いけれど、じきに慣れると思う。

フェリシア!少し生活が落ち着いたら、女王試験の時に降りた場所をいくつか巡ってみようと思う。それは夢の中でだけ行ったことがある場所と同じようなもので、変わり果てていても少しも変わっていなくても、たぶんつらい訪問にはならないと思うのだけれど、考えが甘いだろうか。


私に与えられた設定は、こんな感じ。事故で両親を失い、そのせいで記憶の一部を失った大学生。
大学生といっても、すでに卒業できるだけの単位は取得済み。
主星の大貴族の一族の末端で、フェリシアの3代前の大神官の遠縁に当たる、と。
しばらくは現実とのリハビリを兼ねて研究院の職員が定期的に訪れてヘルプしてくれるらしい。



なんとかここでの生活の仕方がわかり、何もかも自分でする生活に慣れてきた頃、隣人宅に食事に招かれた。

どうもご主人は女王や守護聖など聖地についての民間信仰についての在野の研究者、らしい。そういう意味でもしかしたら家を建てる場所を少し誤ったかもしれない。私の正体がばれることはないと思うけれど、私のやってきたことについてたぶんこの星で10番目以内ぐらいには詳しそうだ。お子さんにも、フェリシアの天使にそっくりだと指摘されてしまうし。

それでもご主人も奥様もとても穏やかで知的だし、奥様のお料理は美味しかった。子供達も素直そうだった。


帰り際、上のお子さんの家庭教師というか話相手にならないかと頼まれてしまった。
12歳の女の子で、学校には長いこと通っていないのだという。部屋からほとんど出ず、あまり口もきかないのだと。
キラキラとした瞳で一生懸命私の方を見ていたあの女の子。全然そんな風に見えない、と驚いたが、たしかに今日の訪問中も彼女はひとことも話していなかった。上機嫌ではいたのだが。

返事は保留したけれど、たぶん引き受けることになる気がする。



それにしても。天使の話が続くといろいろ危なそうだと思ったのでとっさに話題を変えるつもりで守護聖の話題を出してしまったのは本当に迂闊だった。まさか打てば響くように闇の守護聖の話になってしまうとは。
それでも、この星で、闇の守護聖が恐ろしい存在ではなくむしろ親しまれているようなのがわかって、本当に嬉しい。
さすが私のフェリシアだわ、と思うとなおのこと嬉しかった。


帰ってから考えたのだけれど、ヘタに隠そうとするよりも、「フェリシアの天使に似ているって言われてから天使信仰が気になるようになって」とか言って開き直った方がかえって怪しまれないかも知れない。


 5



はじめて我が家に来た次の日から、お姫様は我が家にしょっちゅう来るようになった。


十日もしないうちに、ふと気づけば客間やダイニングで母さんと一緒にお茶を飲んだりしている存在になった。
わたしは、みんなが学校に行っているような時間には部屋から出ないようにしているのだけれど、お姫様のお話を聞き逃すのが惜しくて、2度目の訪問からは客間の隅に陣取ることにした。
母さんは驚いた顔をしていたけれど、わたしの分もお茶を入れてくれたので、同席して話を聞いてもかまわないということだと思う。


お姫様はあまり自分の話はしない。
母さんとは、フェリシアで暮らしていくためのいろいろな知識と、家事全般についていろいろ話している。
父さんとは、天使信仰や守護聖信仰について、いつも熱く語り合っているようだ。父さんが一方的に熱いのかもしれないけれど。おかげで私も父さんの専門についてこれまで以上に詳しくなってしまった。たくさんある父さんの蔵書の中から易しいものを借りて読むようにもなった。

音楽の話で盛り上がった次の訪問では、ヴァイオリンを携えてきてくれた。もちろん演奏も披露してくれたのだ。

その後も何度か聞かせて貰ったあと、合奏ができたら素敵だと思いついて、わたしもずっとお休みしていたピアノの練習を再開した。
父さんも母さんもすごく喜んでくれたけれど、お姫様がものすごく感激してくれたのが一番嬉しい。



お姫様がやって来てから半年以上が経ったけれど、はじめにお手伝いに来ていた人以外のお客様を見ることはほとんど無かった。
主星の人なんだから、お友達もそちらにいて、そう簡単にフェリシアまでは来られないでしょうけれど、おさびしいでしょうね、と母さんがしみじみ言っていたけれど、わたしも本当にその通りだと思う。
それでもお姫様はいつも誇り高く明るかった。




例によって窓からお隣を眺めていると、ふわふわの金髪の若い女の人がやって来た。見たことがないから、この近くの人ではないと思う。
お姫様の大学のお友達とかかな、と何気なく眺めていて、息をのんだ。


双天使だ!


そう、そのお客様とお姫様とが並ぶと、大聖堂に掲げてある「双天使」の絵そのものだったのだ。
キレイ。可愛い。そして、神々しい。

夢のようだ、と思ってよく見ようと思ったけれど、二人は家の中に入り、出てこなかった。


金髪の女の人は夕方に帰っていった。
帰り際何度も何度もお姫様の方を振り返っていた。きっと心配なんだな。
お姫様はお友達を見送ったあと、しばらく灯りもつけずに部屋にいて、灯りがついた時には、たぶん泣いていたと思う。

胸がしめつけられるってこんな感じ?
…全然関係ないはずなのに、見ていただけのわたしも少し泣いてしまった。



それからしばらくお姫様はうちに来なかった。
わたしは何度も静かに泣いているお姫様の様子を思い出してしまい、落ち着かない気分でいた。



何日かして、母さんがシャルロットポワールを焼いたので、お隣にも持っていくことになった。お姫様の大好物だと聞いていたからだ。
咲き始めた庭の白バラを添えたい、と思って母さんにお願いしたら、お使いできる?と聞かれた。

行きたい。そう思って、大きく頷いた。

ものすごく久しぶりに玄関のドアにさわった気がする。外に出るのはもっと久しぶりだ。

わたしが訪れると、お姫様はとても驚いた顔をしていた。
入る?と聞いてくれたので頷いた。

そこは予想以上に素敵な空間だった。応接間には不思議なものが色々あった。
その一方、家族の写真をはじめとして、こういうところにありがちなものが無い。それは彼女のセンスの良さなのかも知れないと思った。

「モードリン?」
わたしを我に帰す声。
お持たせのシャルロットポワールとロイヤルミルクティーをご馳走になる。


お姫様はやっぱり少し元気がなかった。
「眠れないの?」
わたしは思いきって尋ねてみた。よかった、ちゃんと声が出た。
お姫様ははじめて私の声を聞いたのでちょっと驚いていたようだけれど、
「大丈夫よ、お守りもあるし」と微笑みながら暖炉の上の額を見やった。

小さな額に入れられたのは、むらさき色をした菱形の石だった。
わたしには本物の紫水晶に見えたけれど、自信はない。
あれはたしか闇の守護聖様の護符のかたち。すごく、きれいだ。

その額のほか、この部屋にはいろいろなものが飾られている。
淡い色で描かれた花の水彩画。小さなオルゴール。きれいな絵本が数冊。

「そうそう」と、わたしにいちごの形のクッションを持ってきてくれた。
なんかお姫様のイメージとは違うな。そんな思いが顔に出てしまったのか、お姫様はおかしそうに笑って
「これ、お友達からのプレゼントなのよ。私には似合わないけれど、大切な記念品なの」という。

お姫様はとくに飾ってある物についての説明はしなかったけれど、どれも本当に大切な物たちであることはよくわかった。
家具もカーテンやカーペットやテーブルクロスも、この星で普通に売っている物とはどこか違って、やはり遠くから来た人なのだと改めて思った。

夢の中のようにふわふわした時間はあっという間に過ぎた。お土産に、珍しい緑茶をおすそ分けして貰う。
「また来てね。次には美味しいチェリーパイを作るわ。とっても美味しいレシピを教わったの」

お姫様の笑顔は、でもやっぱり少し寂しそうだと思った。


 6


フェリシアで暮らし始めて7ヶ月目のある日、思いがけない来客があった。アンジェリークだ。
たくさんのお土産は、なつかしい聖地の庭園のにおいがした。

みんな元気よ。

…あの人のことは訊けなかった。


アンジェリークが帰ってしまってから、久しぶりにたくさん泣いてしまった。
私は何も失っていないはずなのに。
ここで新しくたくさんの物を得たつもりでいたのに。
足りないものは、たぶん、一つだけなのに。




数日後、また思いがけない来客があった。隣のモードリンだ。
隣家の奥様の焼いたケーキに、花を添えて。どちらも私の好きな物で、心遣いがしみた。

まだ泣きたい気持ちを引きずっていた私が、彼女がここまで来たという事がどれほどすごいことなのかを思い出すのには時間がかかった。
でも後で考えるとそれで良かったと思う。大げさに喜んだり褒めたりしないですんだから。

すぐに引き返そうとしたモードリンを招き入れ、客間に座ってもらう。

お茶が用意できるまでの間、客間の暖炉の上の小さな額に入った菱形の紫水晶をじっと見ていた彼女は、たぶんその意味を知っている。

「眠れないの?」

か細い声でそう聞いてきた。考えてみれば、彼女の声を聞くのは初めてだ。
「大丈夫よ、ちゃんとお守りもあるもの」と紫水晶の額を見やると、安心したように、ぎこちなく微笑んだ。

そのあと、必要以上に饒舌になってしまった私を、小さなモードリンはしっかりと受け止めてくれた。
だからなのだろう、彼女が帰ったあと、「なんだかよくわからないけれど泣きたい」事はなくなったようだった。


あの紫水晶、私はただの餞別なのか約束なのかずっと悩んできたけれど、お守りだったのだと気がついたから。


 7


それ以来、わたしは時々家の外に出る。
お姫様とも少しはお話ができるようになった。


お姫様は家庭教師に進化した。いや、退化になるのかな、これは。お姫様から先生なんだから。
それでもまあ、わたしの立ち位置というかポジションを考えた時、「お姫様見習い」はどう考えてもナシなので、「ロザリア先生の一番弟子」で我慢する。

お勉強をしていて、わからないところをまとめて聞く。丁寧な説明が帰ってくる。
それにしても「先生」と呼びかけなければならないのが残念だ。姫君、って呼ぶわけにはいかないし。
お勉強のあとのお楽しみはおしゃべりと合奏だ。
なんとか合奏できる曲も半年あまりの間に3曲まで増えた。今、もう少し長めの曲に挑戦している。


「今更だけれどロザリアさんって本当に天使のようね。少なくとも我が家にとっては天使だったわ」

「確かに。だがその場合、天使はなぜ地上に来たのだろう?」

「お話なら天使が地上に来るのは禁断の恋だとかそんな感じだけれどね」

「…お前ろくな本読んできてないな」
「まあ失礼な。世間的に見ればあなたこそ本の趣味が悪いわよ。自覚無いでしょうけど」

こういうくだらないことを言い合っている両親をにやにや見守るのが好きだ。





そして、季節は巡る。





わたしは14才になった。
初級学校はあのあと卒業式だけ出席した。
中級学校は、お姫様の薦めで隣町の女子校を受験した。主星のスモルニィの連鎖校だ。一年遅れになってしまったけれど、かまわない。

学校は、思っていた以上に楽しい。



学校帰りの駅に、見慣れない男性が混じっていた。ここは大神殿の最寄り駅でもあるが、観光客がほとんどいないこの時間帯、とても背が高いその人は否応なく目を引いた。
黒ずくめの服装に、長い黒髪。横顔はとても端正だ。こんなきれいな男の人が本当にいるんだ、と思ってしまうほどに。
駅を出るとその人はまっすぐ案内地図の前に向かい、手にしたメモと見比べている。

もしかして、お姫様のところに行こうとしている?

その疑念が確信に変わったのは、駅から家に向かう道、その人がずっと私の前を歩いていたからだ。この方向でこの人が向かいそうなところというと、それしか思いつかない。
と、すると。いったいこの人は悪い魔女側の人間なのか、それともまさか王子様側の人間なのか。

正直今でもわたしは、ロザリア先生はお姫様なんだって信じている。悪い魔女と王子様のことはこのところすっかり忘れていたけれど、越してきたばかりのお姫様と同じぐらい浮世離れしたこの男の人の正体は、一旦思いつくとそれ以外考えられない。

とにかくこの人より先に家に帰って、お姫様に知らせなくちゃ!

そう思って、足を速めてその人を追い越す。追い越しざまに顔をよく見ようと思ったら、なんだか睨みつけるみたいになってしまった。
突然知らない女の子に睨みつかれてもその人は片眉を上げることもなく平然としていたけれど。

早足で歩きながら、でも、悪い魔女の手先なら、あそこまで目立ったりはしないだろうと考える。
では、王子様?
すごく違和感がある。いっそ魔王だと言ってもらった方がぴったり来る。

あ、でも、魔王は元々堕天使だったって、どこかで読んだ。あれは何かの伝承本だったか考察本だったかそれとも全くのフィクションだったか…

かなり急いだつもりだったが、かばんを置いて部屋の窓から外を見る頃にはすでにあの男の人はお姫様の家の門のところまで10メートル、という感じだった。わたしはお姫様への警告を断念した。

男の人は何度もメモと表札を見比べていたが、突然ものすごく柔らかな表情になると、服装を整えて姿勢を正し、ベルを押した。
遠目にもはっきりわかる表情の変化にドキドキする。これは、えっと。


やがてベルに答えて玄関の扉から出てきたお姫様は、ものすごく驚いた顔をすると、2・3瞬後、びっくりする早さで門に駆け寄った。
大きく腕を広げていた男の人がお姫様を抱きしめる。なにか、ドラマを見ているみたいだ。
お姫様は少し泣いている。


やっと王子様が迎えにきたのだ。それぐらい、14歳のわたしでもわかる。
王子様っていうよりは魔王っぽい感じの人なのはこの際目をつぶろう。

王子様は「おかえり」と言った。
お姫様は「おかえり、なの?」と少し笑った。
「遂にこの腕の中に還ったのだから」と聞いたお姫様はもう一度王子様にしがみついた。


そのあとは、じろじろ見ては失礼だと思ったので、わたしは窓のカーテンを閉じた。



よかった。本当に良かった。



王子様が迎えに来たから、お姫様は行ってしまうのだろうか?
それとも王子様と一緒にお隣にいてくれるのだろうか?

これからのことはまだわからないけれど、これが本物のハッピーエンドで、自分がその続きを知りうる幸運な立場にあることだけは、わかるのだ。

わたしはお姫様の一番弟子なのだから。

お題提供:


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諸願奉納所へ