ゆきやなぎ・はらはら 瑞稀編


3年に上がってから、瑞稀はあらゆるイミで不調だ。
それもこれも寮で個室になってしまったせいだ、というのは半分だけ当たっている。

はじめは、前向きに考えようと思っていた。
そう、桜咲に来て初めて(たぶん)完璧に一人の空間を手に入れられるのだ、と。これで「ほっ」とできるというふうに。そりゃ、大好きな人と同じ部屋に住んでいるというすっばらしい状況を犠牲にするにしては、得られるものはあまりにも小さいけれど。

でも甘かった。

一日に何度か、居もしないルームメイトに声をかけてしまう。
外から帰ったときや、朝起きたとき、そしてバスルームを使ったあととか、食堂へ行くとき。
そしてそのあと、一人落ち込む。
こんな状態で、残りの学校生活、すなわち日本での時間を浪費してしまっていいのだろうか、と少なからず焦るが、何も打つ手はなくて。
それでなくても、進路のことについて煮詰めないといけないのに。

実際、一人というのはこんなにも落ち着かないことだったなんて。
以前より格段に部屋の扉がノックされる回数は増えた。そのたびに緊張する。
……ずっと緊張し続けの以前より、この方がましだと思っていたのは、認識不足だった。今の方が絶対大きなエネルギーがいるのだ。
そして、そのエネルギーを補給し続けてきた存在は今部屋の中にはない。
結果的に消耗のみが激しくなり、瑞稀はここのところとても疲れている。きっとこの状態にも慣れるのだろう。そう、ほんの一月ほどの間に。それはそれで、なにか寂しいことだけれど。


せっかく佐野の部活がオフなのに、瑞稀はまたはぜどんに呼び出されてしまった。
彼女は一応帰国する、と言う前提の進路指導を受けているのだが、桜咲には米国の大学を第一志望にした者の前例がほとんどなく、その点が進路指導担当者をナーバスにしている。
加えて瑞稀自身も、帰国となると正直言って決心がつきかねている部分があった。もちろん、現時点ではこれが一番まっとうな選択だと、理屈では思うのだが。
「とにかく、話し合うことで見えてくることもあるでしょう。」と言うのがはぜどんの基本スタンスなのだが、結局今日の話し合いも不調に終わった。「だって、佐野のことをどうしたらいいかが引っかかっていて」などとはもちろん言えない、瑞稀の側にその責任はあった。

ああ、こんな調子で大丈夫なんだろうか。少しうつむき加減に歩いていたら、思いがけず裕次郎を連れた佐野に出会った。

「えええ?今日はもう散歩に出てんの?おれが連れていこうと思ってたのに」
情けない声で叫ぶと、嬉しそうに裕次郎に駆け寄る瑞稀。
「こんな天気だからな」
「そっか。……そうだね」
瑞稀は空を仰ぎ見てしばらく考えていたが、
「おれも一緒に行きたいけれど、待っててくんない?カバンおいてくるから」
「そのままでついて来いよ」
「うーん……よし!そうしよっと!」
『ついてこい』なんてすっごく嬉しいフレーズだなあ、と考える自分の脳天気ぶりに瑞稀はちょっとあきれる。でも嬉しい。

瑞稀は通学姿そのままで、佐野の隣をついてゆく。
「なんかこういうのって久しぶりだねー」
「ああ」

あまり言葉は交わさないけれど、それが本当に佐野って感じがして、瑞稀には嬉しかった。いいお天気でないのが少し残念だったけれど、今日のような不思議な色合いの空も、なにか素敵なことが起こりそうで。とりあえず隣に佐野がいるのは、本当に素敵だし。
そんなことを考えているうちに、佐野はどんどん瑞稀の来たことのない道へ裕次郎を誘導していく。
住宅が並ぶ中の細い路地をいくつか曲がり、短い坂を上ると、あたりは急に開けて、そこは土手の上だった。目の前の柵の向こうには小さな川が流れていた。
柵のきわには、植わっているのか生えているのか、10本ちかくの雪柳が並んでいて、その花は、桜で言うと満開を少し過ぎた「散り初め」の風情だった。

「うわー、綺麗……」思わず感嘆の声を上げてしまう。ただ咲いているだけでも、綺麗でかわいいのに、時々吹く風にゆすられて花びらをはらはらと散らす様子がそれにもまして美しい。それは、今日の奇妙な色合いの光のもと、なにか魔法じみて見える幻想的な景色で、瑞稀は思わず舞い上がり渦となった花びらを両手に受け止めようと手を伸ばす。

そんな様子をいたずらな風が見ていたかのように、不意に突風が起きた。雪柳は大きく反動をつけてたたきつけられ、無数の花びらを散らした。視界いっぱいに広がる細かな花びらが、瑞稀の心のもやもやをすべて優しく包んでくれるような気がして、雷が鳴っているけれど、降ってはいないので気にしないで花のそばに居続けた。

花の中で、半ばトリップしていたのだ、と思う。


不意に。
背後から佐野に抱きしめられた、気がした。
いや、雨混じりの突風とどちらが先だったのか、自信がない。
とにかく大粒の雨が瑞稀をいきなり現実に引き戻し、気がつけば、佐野の折り畳み傘の下、佐野の上着に半分包まれるようにして、雨の中二人立ちつくしていた。
佐野は何も言わなかった。瑞稀も何も言えなかった。
さして大きくない傘の下、鼓動も熱ももうどちらのものなのか、解らなかった。


雨は行ってしまうのも突然だった。佐野はさっさと傘を畳んでいる。何もなかったかのように。どうしていいか解らなかった瑞稀は、とりあえず北の空に稲光を発見して、指さした。
「……あっちへ行ったみたい」

ふたりはその後ずっと無言で寮まで帰ってきた。
裕次郎を小屋につなぐと、瑞稀の方を振り返った佐野は何でもないような顔で言う。

「思ったより濡れないでよかった。」
「うん。……あの…傘、ありがと」
「あんな傘でもナイよりましだったな」
「本当、助かった」

つ、と佐野が腕を伸ばす。
先ほどの短い抱擁を思い出して瑞稀はちょっと身をすくめる。
「いっぱいついてる」ほら、と示した指先に、雪柳の花びら。
「本当だ。でも、なんだか取っちゃうの、もったいないね」
佐野は不思議そうな表情をする。

「風邪引くなよ」
「うん、佐野もね」
「ああ」

他愛ない会話を交わして、廊下で別れる。
それから部屋にはいると、扉を後ろ手で閉めて、大きく息をするのだった。

気のせいかな。雨になるより佐野が抱きしめてきた方が一瞬早かったのは。
…・あたしの、願望?……うん、きっと、そうだ。
毎日に、佐野が足りないから、そんなことを思ったのだ。
佐野の体温が、鼓動が、腕の感じが、まだ残っている自分自身を、瑞稀はそっと抱きしめた。


それからしばらく、花がすっかり散ってしまうまでの間、佐野も瑞稀も、学校の裏庭の雪柳のそばを通るときになぜかうつむいてしまっていることに気づいたものはなかった。
そう、本人たちでさえ。

(おしまい)


ゆきやなぎ・はらはらの瑞稀編です。
佐野との違いなど比較してお楽しみください。(楽しいかどうかはわからないけれど)
少なくとも書いている方はけっこう楽しかったです。

以前は佐野を書く方がラクでしたが、最近は瑞稀の方がすんなり書けるのはなぜなんでしょうね。


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