ねぎらい


 3


「ところで、報告会とパーティーのことなのですが少々変更点がありまして」
「任せる。とりあえず当日オレは挨拶だけでいいんだろう?」
「はい」
「じゃ、問題ない」
「変更点はこちらにまとめてありますのでまた目を通してください」
そう言って退室しかけたナギは扉を閉まる前に改めてレインの部屋の惨状を眺めて付け加えた。
「…しかし、これ本当に当日までに片付くんですか」

「正直断言できないがベストは尽くすさ」
「ジェットをよこしましょうか」
「それは最後の手段だな。だいたいあいつにそんな暇はないだろう」

新しい研究に着手していたレインに部屋の片付けという難題が降りかかったのはほんの数時間前だった。
曰く、報告会当日は外部の人間がたくさん財団本部にやってくること。
セキュリティは万全であるが、万が一不審者が紛れたり、出席者がふと魔が差して”記念品”を持ち帰りたい衝動に駆られたときのことを考えて、人を招くことができるレベルとは言わないが、何か無くなった物があればすぐに気がつくようにしていてほしいと。

確かにどこに何があるのか完璧に把握しているつもりではいるが、現在の状況が一覧性に乏しいという点では反論できなかった。そんなわけで現在レインの周囲半径5mは、片付け途中ならではの、しまい込まれた物がすべて外に出ている状態で、足の踏み場もない。

ここ財団本部で「レインの部屋」と皆に認識されている場所は3つある。一つは理事室で、ある意味一番公式なレインの所在地だが、実際には滞在時間はごく短い。一つは現在片付けている個人ラボで、彼の研究生活の拠点だ。そしてもう一つは個人ラボの奥の仮眠スペースで、陽だまり邸を出たあとのレインは事実上そこで生活している。もちろん、財団の名誉のためにも付け加えると、理事が住まうにふさわしい住宅も財団は用意しているし、ヨルゴ前理事の居宅にはレインのための部屋も残されている。さらに財団創始者の息子でもあるレインは自分名義の住宅も複数所有していて、そのうちの一つ、財団本部から徒歩3分のアパルトマンの一室には彼の主な家財道具が置かれていて、財団復帰当初はそこが彼の家だと皆に認識されていた。だが、財団に復帰して半月めぐらいから、個人ラボと仮眠用ベッドとミニキッチンで彼は生活のほとんどを済ませるようになっていたのだった。

片付けは必要がないだけで、特に苦手というわけではないのだとアンジェリークに言い訳したことがあったっけ。確かにしまい込まれた物を一目見ればそれが何でどう使う物なのかはもちろん、来歴も瞬時に思い出す。だが、目にしない限り思い出さなかったであろう物もあることは認めざるを得ない。
大事な物を入れている鍵付きの引き出しの底から出現した小箱を手にとってレインはため息をついた。

甘いのか苦いのか判然としない想いに彩られたその小箱のことを失念していたのは、もっとどうにかできたはずだという後悔が記憶に蓋をしていたのだろうか。
そこにはオーブハンターの頃、ジャディスのはずれ、風哭の峡谷で見つけた古代の指輪型アーティファクトが納められていた。アーティファクトとしての解析はとうに済んでいる。その機能が彼女の身に危険が迫った際に大いに役だつだろうと判断して、機会を見つけて渡しておこうと思っていたはずが、その前に怒濤の展開ですべてが終わってしまった、といういささか間抜けな想い出だけがこびりついたまま。

もちろん、そんなはずじゃなかった。
オレには不可能はない、やろうと思ったことは絶対できるというと「すごい自信ね」と感心したように言った彼女は、このことを知ったらどんな反応をするのだろうか。綿密に計画を立て、あらゆる努力をしても今のところただひとつ成就できていないのが彼女を手に入れることだった。
いや違う。機が熟していないのだ。条件さえ揃えば、必ず計画は達成できる。
ただ、この件に関しては自分はいつもの冷静さを失いがちだし、不確定要素も多すぎるのだ。
混乱したときは原点に立ち返って再開するという方策がある。ケースを開き、指輪に改めて対面したレインは、この指輪もその原点の一つかもしれないとぼんやり思った。


本腰を入れれば片付けは思ったより早く進んだ。郵便物と書類の束をもって様子を見に来たジェットに感心される程度には。

「この進捗状況なら、特に手助けは要らないと見える」
「その通りだ。こちらのことはいいので、持ち場に戻ってくれ」
「わかった。ああ、そういえば、ナギに勧められて、俺も友人をひとりパーティーに招待した。一応報告しておく」
部屋を出るジェットをレインは茫然と見送った。ジェットに財団外の友人だって?あいつに私生活なんてものがあったなんて、想像できないにもほどがある。
軽く混乱しながらも、エレボスを滅ぼして一つの時代が終わったあとも年月は過ぎ、世界は動き続けているのだと、改めて実感するのだった。

渡された束の中にはアンジェリークからの手紙が混じっていた。はやる気持ちで開封して読み進めたが、淡々と毎日の様子が綴られていただけだった。手紙をたたんで天井を見上げ、ため息をつく。何を期待していたんだ自分は、と。
そしてジェットの言葉を思い出す。そうだ、パーティーだ。
パーティーに誘ったら彼女は喜んでくれるだろうか?ニクスに舞踏会に連れて行ってもらったのだとはしゃいでいたことがあったな。今回のはさすがに舞踏会ではないけれど、華やいだ席が嫌いというわけでないのは確かだ。
ああ、でも次の日は学校だな。あいつは学校を大切に思っているだろうから、休むという選択肢はないだろう。じゃあ無理か。
待てよ。オートモービルで寮まで送れば問題ないじゃないか。
門限に間に合わないのなら、いっそ翌朝一番にでも、学校に間に合わせることぐらいできる。
…翌朝?

明らかに思考が暴走している。
落ち着こうと、レインは古代の指輪のひんやりとした感触を確かめた。




レインの誕生日に財団に行くことができると確定した翌日、アンジェリークの今週のお小遣いはほとんどすべてリンゴとバターと粉に化けた。それからは毎日練習と称してアップルパイを焼いた。
はじめは喜んで味見につきあってくれた友人たちも、すぐにバターとリンゴの香りに食傷し、ついには「もう十分練習は足りていると思うわ」と遠回しに新規作成を阻止しようとするに及んだ。
だがアンジェリークの舞い上がりようは遠回しの提案ぐらいでは止めることはできなかった。普通のアップルパイを完璧に焼けるようになったあと、レインの「具だくさん」へのこだわりを思い出してしまい、「特製具だくさんアップルパイ」なるものの開発に着手しようとしたのだ。

もしもサリーの「アンジェ、それもうアップルパイじゃない気がする」の一言がなければどこまで暴走したのか、想像するだに恐ろしい。
加えてハンナはプレゼントのラッピングにアンジェリークの興味をそらすことに成功し、さらにはアンジェリーク本人のラッピングにも言及した。

「それでパーティーでは何を着るの?」
「え?制服のつもりなのだけれど」
「パーティーなのに制服ですって!?」
「だって報告会には学校代表で出席するのよ?だから当然制服だと思うの」
正直アンジェリークには、そのときまで制服以外の選択肢があるという発想がなかったのだ。

「まあ報告会はそうなるだろうけれど…」
「パーティーは報告会の続きにあるんだから、やっぱり制服じゃないかと」
と、控えめに主張してみたが、
「でも、アンジェ、パーティーでがんばらずにいつがんばるのよ!」
とあっさり却下されてしまった。
「がんばるって…服は関係ないような気がするけれど…」
という当事者の意見は汲んでもらえそうにないのだけは確かだった。

アンジェリークが制服でパーティーに出かけようとしているのを知った友人達はハンナとサリーを先頭に5人ばかり連れだって、その日の放課後アンジェリークの部屋に押しかけてきた。「アンジェリーク改善委員会」なのだそうだ。
「クローゼット開けるわよ。…あら、このドレスは?」
「お誕生日にニクスさんからいただいたの」
控えめに発言するアンジェを半ば無視して、委員会は暴走する。
「さすがいいセンスだし、素材も仕立ても超一流ね。これにしなさいよ」
「あら、恋人に会いに行くのに他の男からもらったドレスはあんまりじゃないかしら?」
「じゃあどうするのよ。私の貸してあげたいけれど、色がアンジェ向きじゃないのよね」
「私のも貸してあげたいけれどどう考えてもサイズが合わないと思うのよね」
「このドレスでいいんじゃない?だって一応ニクスさんと一緒にパーティーに出るんだから」
と、一応結論が出たらしく、議題は次に移る。
「で、髪とアクセサリーだけれど」
「え?これで行くの、本当に?派手すぎない?場違いじゃない?」
とアンジェリークはあくまで制服出席のセンを崩したくないのだが、皆には通じない。
「だって今をときめく財団のパーティーなのよ。で、話を戻して、あなた一人で着替えて髪もどうにかするとなると…」

結局あらゆる可能性を考慮して、更衣室のたぐいが全くない場合の制服のパーティーアレンジから舞踏会にも出席できそうなドレスアップまでの何段階かについて対策を講じることになり、アンジェリークはふくれあがった自らの荷物におののくのだった。もちろんひとりで失敗しない髪のアレンジについても議論は重ねられ、アンジェリークはアクセサリー次第で最新のアップスタイルのように見える、簡単な髪型についての特訓を受ける羽目になったのだ。

無事に使命を果たしたアンジェリーク改善委員会の面々は、雑談という名の根掘り葉掘りタイムに突入する。
「パーティーのあとは陽だまり邸に戻るの?」
「ニクスさんがベイサイドホテルにお部屋を取ってくださっているの」
「ベイサイドかあ。いいなあ、あそこのアメニティ、ものすごく可愛いって評判なのよね」
「じゃあ当日は終日ニクスさんと行動なのね」
「でもニクスさんは今回ファリアンには泊まらないんですって。色々お忙しいみたい」
「じゃあ、ひとりなのね。それとも恋人とお泊まりとか――無いな、アンジェだし」
「うんまあ、アンジェだし」
ちょっとそれどういうことよ、という心の叫びは表に出さなかった。実際、自分でも無いと思うから。
「とりあえず帰ってきたらベイサイドホテルのアメニティ見せてね」
「レターペーパーとポストカードもよろしく」
「タイトなスケジュールっぽいから、今回はファリアン銘菓は我慢してあげる」
「あら、でもベイサイドホテルのレモンターツなら大歓迎よ」

大騒ぎの末、委員会は解散した。その夜、ほとんどの準備が整ったころ、レインから手紙が届いた。いつもより一回り大きな封筒をアンジェリークは不思議に思ったが、開封してさらに驚いた。財団のパーティーの招待状が同封されていたのだ。
いつも通り文面は簡潔だったが、パーティーがあるから都合がつけば来ないかということが記されていて、アンジェリークは困惑した。嬉しい。ものすごく嬉しい。実はすでに出席の準備をしているんです、と返事したらレインはどう思うだろうか。でもパーティーへの参加はレインには伏せておくように言われている。

アンジェリークは悩みに悩んだ末、断腸の思いで、「その日は学校関係の重要な用事があるので、せっかくのお誘いを断らなければならないのが残念でたまらない」、と返信をしたためたのだった。これならぎりぎり嘘ではないと思うのだけれど、と。
レインの誘いを断るのもレインにごまかしをする羽目になることも予想もしていなかった彼女は、やはり物事を引き受けるときはもっと慎重になるべきだったと反省するのだった。





いよいよその日が翌日にせまり、ニクスと財団側は計画のチェックに余念がない。

「当初はごく単純な話だったと思ったのですが、なんだか日に日に大ごとになって来ている気がしますね」
話しかけながら、紅茶のカップをジェットの目の前に置く。このところの連日、時には日に何度も訪問する中、客人もそれがこの屋敷でのルールだと理解したのだろう。すすめられるままに紅茶を飲み干し、短い賛辞を述べたあと、言う。

「現在もこれはごくシンプルな計画だと認識している。理事の誕生日を祝いサプライズを用意する、それだけだ」
「確かに」と篤志家も彼の斜め向かいの席に着く。

「だが、人の心や特定の人間の反応を織り込もうとすると見えない分岐が増え、準備が増大するのは確かだ」
「とくに今回はその人というのがあのレイン君ですからね」
「元々彼は多様な答えを瞬時に導く能力がある。そんな素地に加え、現在はその思考パターンに妙な負荷がかかっているので予測しづらいことこの上ない」
「妙な負荷ですか」
「ナギが言うには恋の闇なのだそうだ。理解不能だ」
「天才少年も己の純情さに足をとられると」
「比喩表現はあまり得意でないので細かい部分のニュアンスがわからないが、とりあえずアンジェリークから来た、パーティーの誘いを断る手紙を読んでからのこの8時間あまり、レインの作業効率は十分の一になり、論理的思考力も半減しているのは確かだ」
「その件については私も迂闊でした。レイン君がアンジェリークを直接誘うという可能性を見落としていたのですから。アンジェリークが事前に相談してくれればもう少しうまく立ち回れたかもしれませんが、彼女は私の言いつけをきちんと守ってくれただけなのですし」

「『まあ、ここでこんなにがっかりしてくれるということは、当日の喜びも倍増すると考えて良いでしょう』というのがナギからの伝言だ」
「それはちょっと意外ですね。科学者というのは存外楽天的な存在なのですね」
「個人的な認識だが、財団の者は皆未来に希望を見ているから」
「なるほど」

そして、どうやらレイン君の恋路は、潜在的に皆の希望のシンボルだというわけですね。そのようにはっきりと意識している人間は少ないかもしれないですけれど、とニクスは思う。

「ところで、一つだけ確認しておきたいことがあるのですが」
「答えられる範囲であれば」
「あのふたりのことを財団はどうするつもりなのですか?あくまでプライベートなので財団は一切関与しないのかと思っていたのですが、そうでもないようですし」
「いや、今回はあくまでレインの友人一同が動いているのだ」
「それは…レイン理事にはずいぶん友人が多いことですね」
「その理由はとうにご存知だと思うが」
ジェットがかすかに微笑んだようにニクスには見えた。

「実際、事務方としてはあらゆる可能性を想定してはいる。彼女が卒業を待たずして財団員になる可能性も、彼がカルディナに住むと言い始める可能性も。だからどうしてそんな質問をしたのかはわからないが、こちらのことを気にかける必要はない」

ああ、本当に、レイン君もそしてアンジェリークも、財団の皆から愛されているのですね。
では、遠慮無く参りましょう。


 / 後

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