公園の老婦人たち


アイイチロウ、と名乗ったその人のことを、アンジェリークはそのままいつの間にか忘れていた。
飛空都市の人口は案外多い。そして女王候補は守護聖に次ぐ有名人で、その上、守護聖や補佐官よりはずっと話しかけやすい。というわけで、アンジェリークにとって(たぶんロザリアも)見知らぬ人から話しかけられたり激励されたり、ということは決して珍しくなかったのだ。

試験が始まってすでに二ヶ月あまりが経っていた。さすがに育成にも慣れ、飛空都市での暮らしも板についてきた。守護聖をはじめ、試験関係者との接し方もわかってきた。ロザリアともずいぶん仲良くなった。まだ大陸は半分以上が荒れ地だが、じきに建物でいっぱいになるだろう、とディア様がほほえんでおっしゃっていた。
大陸の様子は日々変化していくけれど、飛空都市の毎日はどちらかというと同じことの繰り返しだ。だからある日大陸を視察して帰ってきたアンジェリークは、なにげなく横切った公園で、初めて見る光景が展開されていることにたいへん驚いた。

たぶんもっと以前ならその光景がどんなに珍しいか気がつかなかっただろう。そう思うと、アンジェリークは自分がどんなにこの飛空都市になじんでいるか、改めて感じ入る。
その珍しい光景とは、なんのことはない、ベンチに並んで腰掛け、話に夢中になっている二人だ。ただその日ベンチにいたのはいつ公園に行っても目にする仲の良い恋人同士ではなく、二人の老婦人だったのだ。

片方の老婦人には見覚えがあった。いつもよりちょっとめかし込んで、造花のついた帽子などかぶっているが、ロザリアのばあやさんだ。もう一人は見慣れない、三角形の顔をした洋装の小柄な老婦人だった。二人は目を輝かせておしゃべりに夢中だ。
アンジェリークが会釈して二人の前を通り過ぎたら、二人も軽く会釈を返し、またすぐに自分たちの会話に没頭するのだった。若い人が圧倒的に多いここ飛空都市では、その視覚的な地味さに反してある意味たいへん目立つ光景だ。いつもの恋人達は、と思わず目で探したけれど、少なくとも公園の中では見つからなかった。

その代わり、思いがけず鋼の守護聖と目があった。彼はよく気分転換と称して公園に来ているのだ。
指先で小さく招かれて、そちらに駆けてゆく。

「おめー、見た?おっかねえのな」
開口一番声をひそめてそんなことを言われても、何がなにやら訳がわからず首をかしげる。
「あのばーさん達だよ。ロザリアんとこのばーさんも前々からなーんか怖いと思ってたんだけどよ、もう一人はそれ以上だ」
「何かあったんですか?」
「いつもあのベンチに座ってるカップルいるじゃん」
「今日はいないですよね?珍しいなって思っていたんです」
「いないんじゃなくて、あのばーさんが追い出したの」
「ええっ??」
「こう、バッグから手帖取り出してさ。『私調べましたの。このベンチ、あなた方以外が使っているのを見た方は公園利用者100人のうちひとりもいらっしゃいませんでした。これがどういう意味かおわかりかしら?この公共のベンチを独占使用なさっている件について、どのように説明していただけるかしら』だってさ」
アンジェリークはちらりとベンチの方を盗み見た。熱心に話し込むその人の声は少しばかり甲高く、確かに多少厳しいことも言いそうだったが、かといって理詰めで攻め込むタイプには見えなかった。
「いやーびっくりしたぜ。あのばーさんならジュリアスでも言い込めちまうかも、なんてな」
「そんなにすごかったんですか」
「うん。でも今見てたら、全然そんな感じが残ってないのがまた恐れ入るよな」
「そうですよね。ゼフェル様は嘘つかないって知っているから信じるけれど、他の人の言葉だと信じられないっていうレベルですよね」
「そうそ…バ、バカっ!……わりー、オレもう行くわ」
なぜか赤面して駆けてゆくゼフェルをぼんやり見送りつつ、アンジェリークは部屋に帰ったのだった。



翌々日、アンジェリークがロザリアの部屋を訪れたのは、ルヴァ主催の勉強会の日程を調整するためだった。だが彼女は不在で、部屋にはばあやさんがいるばかり。

「ああ、アンジェリークさん。お嬢様はもうじき戻りますよ。お茶をお入れしますから、どうぞここでお待ちくださいな」
特にこのあと予定もなかったので、ばあやさんのお誘いに乗ることにした。
お茶とアンジェルークの大好物、イチゴのショートケーキが運ばれてくる。
ばあやさんもテーブルに着き、あれこれ話す。ばあやさんはロザリアがかわいくてしょうがないらしく、小さいときからどんなに才気煥発だったかとか、どれだけ愛らしかったかとかを延々と話すのが常だ。

「あれ、このスポンジ、なんだかいつもと少し違います?」
「まあ、よくお気づきになりましたね。最近お友達になった方に教えてもらったレシピで作りましたのよ」
「いつもよりふんわりしていて、それでいてあっさりしています」
「でしょう?」
お友達とはもしかしてこの前ベンチで話し込んでいたあの人だろうか。

「そういえば、アンジェリークさんはアイイチロウさんをご存知?」
聞き覚えのある名前に、アンジェリークは驚く。
「知っています!いえ、名前しか知りませんけれど」
「どんな方なの?そのお友達、その人のところで働いていて、一緒に飛空都市に来たそうなの」

名前しか知らないと言っているのに、どういう人なのかとあれこれ聞いてくるばあやさんの好奇心に密かに感心しながら、アンジェリークはかの人の背格好や顔立ちをできるだけ詳しく説明し、その素性や何をしているのかはわからないと念入りに前置きしてから付け足した。
「たしか研究院のほうに関係があるとか」
この説明は違うのだけれど、とりあえずの答えでばあやさんを納得させたかったのだ。策は功を奏し、ばあやさんは「そうなんですか」と納得顔で半分乗り出していた身を再び椅子の上に落ち着けた。

そんな会話を交わしている間にロザリアが帰ってきた。ばあやさんはあわててロザリアの分のお茶を用意するために下がった。アンジェリークは尋ねてみた。
「ねえロザリア、アイイチロウさんって知ってる?」
「知らないわ。私いちいち飛空都市の市民の名前まで覚えていなくてよ」即答だ。

「なにか特別のご用でこちらに来ているんですって」
ロザリアは冷めた目でアンジェリークを見つめると答える。
「アンジェリーク、冷静にお考えなさいよ。だいたいこの飛空都市自体、女王試験という特別のご用のためにあるようなものでしょう?」
「あ、確かにそうかも」
「つまり公園ですれ違う人たちもみんな特別といえば特別なのよ。この飛空都市にいるというだけで」
「なるほどね。全然気がつかなかったわ。でも、老婦人を連れてここにくるような人ってどういう立場かしら?」

「……たしかにそうなると見当もつかないわね。その人ってどんな感じの人なの?」
老婦人の存在がロザリアの好奇心とつきあいの良さを刺激したらしく、先ほどまでとは違って少し興味が出てきた様子でロザリアが聞く。

「そこそこ若くて背が高くてきりりとした顔立ちで、でもなんとなく行動がへんてこりんな人」
「……抽象的ね」
「で、一度遊びに来てくださいって」
アンジェリークのその発言に、ロザリアは眉をひそめた。
「そういう事を女王候補に言う人って、珍しいわね」
「でしょう?」
「飛空都市にいて女王試験の重要さを知らない人はいないはずなのに」
そして軽く目をつぶってお茶を一口飲むと、再び目を開いてアンジェをまっすぐに見つめた。

「で、遊びに行く気なのね、アンジェリーク」

ずばりと指摘したロザリアは、腕組みをし直して、厳かに宣言する。
「私はパスするわ。飛空都市に危険な人はいないでしょうけれど、時間がもったいないから」

本当は遊びに行くことまでは考えていなかったアンジェリークだが、ロザリアの言葉で、逆にじゃあ行ってみようか、という気持ちになった。

(つづく)


    

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