迷宮への招待


アンジェリークが初めてその人の存在を認識したのは、2度目の定期審査が終わった日だった。審査のあと大陸に降りるために研究院に急いでいた彼女は、地面に腹ばいになっていた彼を思いきり蹴飛ばしてしまったのだ。おまけに全速で走っていた反動で、「ぐあ」と奇妙な声を上げたその人にアンジェリークは覆い被さるように転んでしまった。
「ご、ごめんなさい」
と、アンジェリークがあわてて飛びのくと、その人は左手で脇腹を押さえ、もう一方の手で体を起こしかけながら首を振った。大丈夫だ、と言いたいらしかった。
「私ったらあわてていて全然気がつかなくて。思いっきり蹴飛ばしてしまいましたよね? 痛いですよね? 本当にごめんなさい!」
予想だにしなかった事態に大いにうろたえながらアンジェリークはひたすら謝ったが、彼の方も負けず劣らぬうろたえぶりらしく、しばらくはばたばたと手を振りぶんぶんと首を振るばかり。アンジェリークがごめんなさいを十数回言ったあたりでようやく立ち上がったその人は、かなり上背があるらしい体を奇妙にねじった、ややへっぴり腰の格好で、左脇腹を押さえたまましばらく口をぱくぱくさせてから言った。
「や、その、全然何ともないことはありませんが、あまりたいしたことはありませんし、なんといっても、こんなところで寝そべっていた僕が悪いのです」
結構いい声なのになんかしゃべり方がそこはかとなく情けないのは痛みのせいなのだろうか、とアンジェリークは密かに思う。
「それより、ご用の途中ではなかったのですか。僕のことは気になさらずに、どうぞ先をお急ぎください」
ようやく姿勢をまっすぐにしてそう言ったときの貴公子然とした笑顔は、飛空都市に来てすっかり美形は見飽きたつもりだったアンジェリークをして「やだこの人すごく素敵じゃない?」と思わせるものだったことを付記しておこう。

もちろん、大陸の視察を終えて研究院から戻る頃には、もう元の場所には誰もいなかったのだった。



次に彼を見かけたのは、それから四日後の森の湖だった。
以前、「これ以上奥に行ってはいけない」と言われたまさしくその先にいた人は、ここ飛空都市では珍しい背広をきちんと着た姿で、カメラを構えていた。そのまま凛々しく立っていたのならよかったのかもしれなかったのだけれど、木に半ば登って不安定な姿勢で中空にレンズを向けている様子は奇妙とか不審とかいう形容以外当てはまる言葉がないように思えた。アンジェリークは彼に声をかけるべきかと思ったのだが、名前も何も知らないことに気がついた。しかしやはりここはきちんと先日のことを謝るべきだと考え、思い切って話しかけることにした。
「こんにちは、またお会いしましたね。先日は申し訳ありませんでした」

アンジェリークにすればそれほど大声でも素っ頓狂な声でもなかったつもりだし、驚かせるような要素は何もないはずだったのに、それまでアンジェリークどころかほかの人間の存在に少しも気づいていなかったらしい彼は、その声にひどく驚いてバランスを崩し、「ひゃあ」と情けない声を出して木からよろけ落ちて尻餅をついた。
しばらくその姿勢のまま固まったあと、カメラが無事であることを何度も確認したあげく、やっとアンジェリークを発見したようだ。とたんに曖昧な笑顔を浮かべてアンジェリークに向かい、
「ああ、あなたはあのときの、ええと」
まで言って、再び固まってしまった。様子が変だと思ったアンジェリークがよく見ると、白目を出している。
もしかして打ち所が悪かったのではと心配して素早く歩み寄ると、何もなかったように笑顔を取り戻したその人は言った。
「もしかしてあなたは女王候補のアンジェリークさんですね。補佐官様からお聞きしています。改めましてこんにちは。僕は、あ、じゃなかった、ええと、アイイチロウと言います」
「こちらこそ改めまして。あの、アイイチロウさんはもしかして研究院の方のかたですか?」
「たしかにここから見て研究院の方に僕の部屋はあるので、研究院の方の人と言えなくもないのですが、僕は研究院の職員ではありません」
「はあ」なんだかすごくこんぐらかるものの言い方だ。
「僕はこの女王試験にあわせて飛空都市に連れてこられたのです。ですから飛空都市のことや女王試験のことはあまり詳しくありませんが、よかったら僕のところにも訪ねて来てください。僕の部屋の場所がわからなければ補佐官様に『トレミーガーデン』とお聞きいただければいいと思います」
正直よくわからないけれど、この人も女王試験になんらかの関係のある人のようだ。そこでアンジェリークは
「お申し出ありがとうございます。是非またお会いしましょう」と丁寧に挨拶して森の湖を辞したのだった。

(つづく)


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