マスタールヴァのカクテルトーク リュミエール編
「いらっしゃいませー。
あー、ご注文は何になさいますかー。
えっ? 私のおすすめですかー? そうですねー。
夜の海の匂いのする貴方様には『ナイト・キャップ』なんていかがでしょう。
……ええ、眠りにつく前に疲れた身体を休める、ブランデーベースのカクテルです。
うー、『ナイト・キャップ』にまつわるお話をしましょうかねー。
昔、ある海辺の町に一人の音楽家が暮らしていました。
彼はかつてはチェリストを志したこともあったのですが、突然指が動かなくなってしまうという奇病にかかり、今は作曲をなりわいとしていました。
潮騒のリズムに乗って今日も彼は楽譜に音符を刻んでいきます。
――今日はどうやら切ないメロディになりそうだ。
何枚もの楽譜が綴られた頃、仕事部屋の窓からは月明りが差し込んでいました。
彼は大きく背伸びをすると、ようやくペンを置き、窓辺へと歩み寄りました。
その時です、彼の耳にか細く聞こえてくる歌声がありました。
しかもよーく耳を澄ませてみると、それは彼がつい先ほど楽譜にしたメロディと同じではありませんか!
彼は夜の海辺を走り続けます、歌声を探し求めて。
その透きとおった声は近づいたと思うと叉遠ざかり、彼の足はもつれるほどに時間だけが過ぎていきます。
そしていつしか歌声は消えてしまったのでした。
――誰なんだ、いったい?
わだかまる気持を胸に家にたどりついた彼は、疲れ切った足を癒そうとバスタブにお湯を入れました。
暖かなお湯は少しずつ彼の心の曇りを忘れさせてくれました。
そうしてほんの何分か眠ったでしょうか、フッと目を開けると、立ちのぼる湯気の向こうに誰かの気配が感じられます。
やがてその姿は彼の目にはっきりと映りました――金色の髪、白い肌、そして輝くピンクのうろこ。
その美しい人魚の瞳は涙にぬれているようでした。
驚きのあまり声も出せずにいる彼に、人魚はそっと右手を差し出します。
手の平には貝殻の形をした石けんがのっていました。
石けんを手に取り、匂いをかぎます。
――涙の匂いがするようだ。
顔を上げると、人魚の姿はすっかり消えてしまっていました。
手の中の石けんを泡立てると、水色の泡が出てきました。
そのはかなげな色に彼の心は針を刺したように痛むのでした。
翌日彼はたまたま訪ねてきた知人の歌手に、夢のような夕べの出来事を話しました。
歌手は顔色を変えました。――もしかしたらそれは”歌姫”の魂かもしれない。
何年か前、”歌姫”とまで呼ばれたオペラ歌手が、突然声が出なくなるという奇病にかかり、絶望した彼女は海へとその身を沈めたというのです。
彼の心には言いようもない深い哀しみのメロディがあふれ出しました。
一途さゆえ他の道を選べなったかった”歌姫”。
鎮魂の祈りを込め完成した曲には、『無口な恋』というタイトルがつけられ、全世界中の人々に愛される名曲となったのです。
さあ、お待たせしました。『ナイト・キャップ』です。
ここをベッドルームだと思って、くつろいで飲んで下さいねー」
「ありがとうございます。人魚となった”歌姫”の魂が恋をするほどの切ないメロディ。
私にもそんなメロディを奏でることができますでしょうか?」