温泉天国


亘理は、あふれる湯に身をゆだねていた。
「あー、ここはいつ来ても、ええ湯や」
ここは京都府の日本海側にある、とある温泉宿。死神になってからの亘理の定宿だ。仕事に一段落ついたとき、亘理はひとりでここに来ることにしているのだった。

お湯の中で、亘理はふとここにはじめてきた冬を思い出していた。

4回生の冬。亘理の属する研究室の忘年会は温泉に一泊ということになった。
幹事は有美子。彼女は、当時工学部機械工学科にはたいへん珍しい女子学生だったが、そのさばけた性格と大胆な言動ゆえ、皆からはいわゆる女の子扱いはされていなかった。泊まり込みになっても文句を言うでないし、宴会で春歌がとびだしても平気で一緒になって歌っているような存在だったのだ。亘理は有美子とはウマが合い、一緒に過ごすことも多かったが、彼にとっても有美子はほとんど「スカートをはいた男友達」でしかなかった。
有美子の口癖は、「私かって地元かえったらお嬢様やねんで。」だったが、それと関係あるのかどうか、この時期になっても就職先を決めていなかった。といって、院入試を受けるという話も聞かない。で、忘年会の幹事などを引き受けているのだから、不可解だ。
しかし安くて快適な温泉宿を押さえ、手ぬかりなく宴会の手配をするその手腕はさすがだと皆思ったのだった。

忘年会本番。みんな程良く酒が回り、遠慮がなくなった頃に、進路が決まっていないことを有美子に質す者がいた。
「それやったら、親の決めた永久就職先が決まってんねん」
さらりと答える有美子に、その場の皆は「ほほう」とごくあっさりと応じたのだった。

やがて酒量はとうに「ほどほど」を過ぎ、一人また一人と陥落していき、いつかその場で起きている者は亘理と有美子だけになった。
「もう、みんな弱いねんから。…なあ、わたりん、一緒に露天風呂いけへん?」
唐突に有美子がそういった。そういえばここの宿は混浴の露天風呂がある。……え?あ?
返答に詰まっていると有美子がおかしそうにいう。
「そういうとこが、ホンマにわたりんやなあ。
 どうせ一緒に行っても、わたりんメガネはずしたら何もみえへんし、 メガネしてても湯気で曇って見えへんていう、したたかな計算がよまれへんかなー。しゃーないなー」
そういうとさっさと部屋を出ていきかけ、こっちを向いて一言。
「わたりん来るんやったらメガネしたままおいでな。 その方が男前やし」
ひとり残された亘理はすっかり酒もさめて、彼女の真意を測りかねていた。

それだけ、である。

春になり、大学院でまた研究と実験の日々が始まった頃、亘理は教授秘書から一片の新聞記事を見せられた。
アラスカで遊覧飛行機が落ちたこと。日本からの新婚旅行客が乗っていたこと。
そしてそこに載っている写真は紛れもなく有美子だった。

葬式には行かなかった。

後日、「工学部女子学生の会」で有美子と親しかったという建築学科の女子学生が訪ねてきた。幾本ものリボンを持って。
有美子は買い物に行ったときなど「これわたりんに似合いそうやん、なあ」と冗談めかして言ってはよくリボンを買っていたのだという。遺品の中にリボンの束を見つけて、彼女はそれを渡しにやってきたのだった。

色とりどりのリボンの束を前に、亘理はただただ戸惑っていた。
考えたあげく、休日、一人であの温泉にゆき、宿の前を流れる小川に流してみたのだった。
リボンはヒラヒラとごくあっけなく流れてしまって、見つめていると無性に切なさがこみ上げた。

皮肉にも亘理自身が自らの命を落としてしまったのはそれから1年余りの頃だった。
「勉強に明け暮れ、浮いた話もなく人生を走り抜けてしまった」と元同級生は弔辞を読んだ。

あれから何年が経ったのか。

…ここの露天風呂は、だから眼鏡をかけたまま入る。
思い出そうにも有美子の面影はもうすっかりおぼろげになっている。
でも、たっぷりの、柔らかいお湯は初めて来たときと全く同じだ。
亘理は子供のようにお湯にすっかりつかって、誰に言うでなく言うのだ。
「あー天国やなあ」
(おしまい)


さがのさんのHPのキリ番で書いていただいた亘理のイラストの御礼をかねて、さがのさんのHPの1000ヒットのお祝いとして贈らせていただきました。

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