特別補習


 帰国子女・芦屋瑞稀の古文の成績は、はっきり言って全然かんばしくない。しかし、それに関しては「まあ、帰国子女なんだから当然かもな」と言う反応を示すのが一般的で、じっさい、彼(彼女、と呼ぶべきか)の担任の柴島教諭や学年主任の本町教諭も同じ意見の持ち主だった。
 しかし国語科の教師達の意見はそうではなく、とくに国語科主任にして、3年の現代国語と文系古文、2年の古文のうち週一時間を担当している藤井寺教諭は、この成績に強い懸念を表しているのだった。
「海外で暮らす日本人だからこそ、身につけてもらいたい教養が古典なのではないでしょうか?」と。
2学期の期末テストの成績を処理しながら、彼はひとつの計画を立て、実行に移した。


このところ、瑞稀はうつむきがちに校内を移動している。ダンスパーティが近づいて皆が殺気立っているのを、いたずらに刺激したくないのはもちろんだが、テスト明け早々返ってきた古文のテストの悲惨な結果が心をずいぶん重くしているのも否めない。しかし、もちろん目立たないように行動する、なんていうことはこの場合なんの役にも立たないのだった。
「芦屋くん」瑞稀が今一番聞きたくない声が彼女を呼び止める。しまった、見つかった!と言う表情で振り返ると、藤井寺先生がいつもの穏やかな笑みを浮かべているのだった。
「ちょっとお話があるのですが」
「は、はい」瑞稀は覚悟を決める。
「実は君の古文の成績のことなのです」

あっちゃー、やっぱりこう来たよ〜。瑞稀は今や、「うつむき加減」ではなくはっきりうつむいている。
「いえ、責めているわけではありませんよ。ただ、心配なのです。
 2年生には君以上に成績のよくない人は幾人もいます。ただ、いずれお国に帰り、あちらで生活することになるであろう君の場合、少し事情が異なると思うのです。
 どういえばいいのか……海外で暮らす日本人として知っていて欲しい最低限、というのがあるとしたら、その中には古典の知識も含まれると思うのですよ」
まさかこういう方面からつつかれるとは思っていなかったので、瑞稀としては黙っているしかない。

「そこで、君にひとつ宿題を出します。宿題っていうほど大げさなものではないんですが。実は3学期の、私の最初の授業は、例年カルタ大会をするのですが、そこで、そうですね、5枚以上取ってください。ですから、百人一首をこの冬がんばってものにして下さい」
なんだか大変なことになってきた、ということしかとりあえず把握できない瑞稀だったが、藤井寺先生はそれには全くかまわず、話を続ける。

「ところで 芦屋くんのルームメイトは誰でしたか?」
唐突な質問に戸惑いつつ、「あ、佐野…くん…です」とこたえると先生はさらにニッコリ微笑み、
「それはよかった。それでは佐野くんにお手伝いをお願いしておきましょう。では、放課後国語科準備室に来なさい。わかりましたね」
穏やかな物腰のわりに有無をいわせぬ押しの強さで、先生は言いたいことを言ってしまうと足早に3年生の教室の方に消えていき、あとには呆然とたたずむ瑞稀だけが残されたのだった。


要するに、だ。百人一首を勉強しろってことだな。で、佐野が先生役。うーん、なんかこわいなあ。佐野ってけっこう口やかましいし、あたしホントーに古文全然ダメだし、いっぱい怒られてしまいそうだなあ。……でもなんか楽しそうな感じもするけど…いや、古文が楽しいなんて事は断じてないよな。たとえ佐野が教えてくれていても……いや、やっぱり佐野とだったら楽しいかな?。……しかし、こんなに心配されるほどあたしの成績ってひどかったんだなあ。そりゃ、多少は自覚してたけどなんだかショック。

とりとめなく色々なことがアタマの中でぐるぐるしたまま、放課後に約束どおり国語科準備室に出向くと、そこには新品のカルタと参考書が用意されていて、「がんばって下さいね」と穏やかな笑顔での励ましの言葉とともに手渡されたのだった。しかも参考書はご丁寧に3冊もある。どうやら、業者が見本として置いていったものを横流ししてくれたようだ。瑞稀は荷物と複雑な思いを抱えて寮に帰った。


部屋に帰ると、一人でとりあえずカルタを並べてみる。…なんて事だ、机の上にはとても並べきれない。床に並べてもとにかくその枚数に圧倒される。なんでこんなにたくさんあるのよ!まあ、綺麗だけどね。
ため息をついていたら、佐野が帰ってきた。
「お帰り、佐野」
「ああ。
 ……きょう藤井寺から妙なこと言われたけれど…ってなんだ、もう貰って来てんのか。ってことはアレ、やっぱり本気だったんだな。
ったく、教えるって何をどう教えればいいってんだよ、なあ。『教えることで何よりも君の勉強になります』なんて言って」
「ゴメン……佐野。おれの古文の成績が悪いばっかりに佐野にまで迷惑かけちゃって。これはおれの宿題なんだし、おれ、自分で何とかするようにがんばるよ。本当にゴメン」
「だから、こういうことでいちいち謝ったり落ち込んだりするなって何度言わすんだよ。俺も頼まれた以上何もしないわけには行かねぇっていうの、わかるか?」
「ご、ごめ…じゃなかった……そ、そうだね。
 じゃあ、佐野、そういうわけで、(内心「どういうわけだ」と自分でツッコミを入れる瑞稀だった)色々迷惑かけるけどよろしく」
「…しかたねえよな」
こうして、瑞稀のための佐野による特別補習が始まったのだった。


「で、どーすんだ」
「……あの……それが……」実は何をどうすればいいかさえよくわかっていないことを、瑞稀は正直に告白する。案の定、佐野は大きくため息をついたが、しばし考え込んだあと、どうやら今後の方針を決めてくれたらしく、おもむろに指示を出す。
「とりあえず丸暗記。意味も文法も二の次だ。だいたいのところを覚えさえすれば、あとはオマエの運動神経で切り抜けろ。…と、念のため、カルタの遊び方、わかっているよな?」
「うん、一応…」

というわけで、まずはひたすら覚えるために読み上げて行くことから始まった。とはいえ、瑞稀の古文の基礎が全くなっていない事に佐野はじきに愕然とすることになるのだ。
「こ、ひ、す、て、ふ」
「……書いてあるとおりに読めばいいのか?」
「あ、違った。ええと……恋す……『てふ』ってなんか特別の読み方あったよね?」
「恋すちょう」
「そっか〜」にぱっと笑う瑞稀を見て、笑う場合ではないと思うんだが、と佐野はあきれる。かと思うと、
「みちの、くの、しのぶも、じずり……あれ?」
「……変なところで区切るんじゃない。そういうのを『弁慶がな、ぎなたを』って言うんだ」
「わーなに何それ。初めて聞いた!」こうして話が果てしなく脱線して行けば、軌道修正も楽ではないのだった。
佐野が内心「どーすんだよ、この調子で」と思っていた頃、瑞稀は瑞稀で、「やっぱり佐野って口やかましい……」としみじみ実感していたのである。


しかしそんなことを繰り返しているうちに、さしもの瑞稀もすらすらと読み札を読み上げることができるようになった。ということで、お勉強はやっと次の段階だ。
「じゃ、上の句読むから下の句を続けて」
「うんっ。」
「『君がため 春の野にいでて 若菜摘む』」
「ええと…我が衣手に…あれ?衣手は、だったかな?……あれあれ??」
「……俺、今から風呂入るから、その間にもう一回全首口唱しておけ」
「全部って、佐野……100もあるよ?!」
「当たり前だろ、百人一首なんだから」
「そ、そりゃそうだけど」
なんかやたらと厳しくない?まだ覚えはじめなんだから、10コとかでもイイじゃない!なんだかくやしくて瑞稀は佐野が消えたバスルームの扉に向かって思いっきりアカンベをして、ふと我に返り、そのあまりのばかばかしさに一人赤面するのだった。


でも佐野の厳しい指導(?)が功を奏して、特別補習は少ない時間で目を見張る効果を上げ、全首暗唱にはほど遠いものの、上の句を聞けば下の句がほぼ正確に答えられるようになったのだった。
「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば」
「忍ぶることの 弱りもぞする!!」
「よし、OK。この分だと何とかなりそうだな。カルタ大会は5人一組らしいから、まあ10枚ぐらいはとれるんじゃないか」
「ホント?本当にそう思う?…よかったぁ……」
「ああ、よかったな。宿題が片づいて」
とたんに瑞稀は、これまでの楽しかったことだけを思い出して(アカンベのことはもちろん忘れて)これで終わりにするのが惜しくなり、引き延ばしをはかることにする。
「うん、今までありがとう、佐野。…でも、古文の宿題なんだからやっぱり意味とか文法とかもわかった方がいいかなーって思うんだけれど…」
「ま、当然、そうだろうな」
「……そっちも頼んでイイ?」
「あのなあ。なんのために3冊も参考書もらったんだよ」
「そ、それはそうなんだけれど……」
やっぱりダメか。生涯唯一(って大げさか)楽しく感じた古文の勉強もここで終わってしまうのね。そんなことを考えて、瑞稀は黙ってしまった。佐野も黙っている。しばしの沈黙は、佐野が破った。
「…意味も文法も、参考書以上のことを俺が教えられるとは思えねぇし、そうそう軽々しく引き受けられねぇと思う」
「……そうだよね…」何もだめ押ししなくても、と思う瑞稀だった。
「……でも、藤井寺が『君の勉強』って言ってたのはこっちの方のことかもな。だから、まあ、ちょっとぐらいなら相手してやれるぜ」
「!」
「つっても、ただ横で見てるだけだぞ」
「ありがとう!!」感極まって抱きついてしまいそうになった瑞稀は、気を付けないと、とあとでしっかり反省したのだった。

そんなこんなで、特別補習の第2部はスタートした。
瑞稀が参考書をぼそぼそと読み上げ、それを佐野が横で聞いていて、時々「それはどういうこと?」などと質問するのだ。答えられないと大きなため息やあきれ顔が待っているので、瑞稀的にはけっこうスリリングだ。とはいえ宿題としてなすべき最低限の部分を一応クリアしているせいか、今度はなんだか気持ちに余裕がある。覚えた歌の思いがけない意味にびっくりしたり、恋の歌に内心深く頷いたり、でも実は佐野の表情をこっそり追っている。ポーカーフェイスはなかなか崩れてくれないが。
 たとえば、札を読んだあと、佐野がいつも小さくため息をついていた式子内親王。恋の歌だったのか。「この歌、好きだな」と試しに言ってみても、佐野は「ふうん」としか反応しなかった。なんでだろ。そんな風に佐野のちょっとした反応ばかり気になってしまったので、勉強した内容が定着したかは大いに疑問なのだった。


そして、新学期間近。
皆で一度カルタをしてみることになり、いつものメンバーが集まる。といっても、中央は「ぼく、パス」と来ていない。野江が読み手を志願してくれたので、残りの5人の戦いになったのだが……

さすが佐野は、瑞稀につきあってみっちり勉強してしまっただけあり、めっちゃ強い。関目と萱島もそこそことっている。中津は瑞稀に負けたことが相当ショックだったようだ。野江に「芦屋、特訓した?」と聞かれて、特別補習の甲斐、あったなあと感激するのだった。

悔しがる中津のために今度は関目が読み手になって、もう一度カルタを取る。結果は前回と似たり寄ったり。これなら、先生も納得してくれるだろう。よかった!

中津はカルタ取りをあきらめ、「なあ、坊主めくりしょうや。」と新たな提案をする。すぐにその場でカルタ大会は坊主めくり大会になった。そしてシンプルだがなかなかエキサイティングなゲームが展開され、結局カルタの倍以上の時間、坊主めくりに燃えていたのだった。にゃはは。


皆が帰ったあと、坊主めくりの死闘でかなり傷んでしまったカルタを片づけていた瑞稀は、佐野が「なかなかやるじゃねぇか」と言ってくれたので、なんだかすごく嬉しくなって、よくわからないけれど涙も出て来てしまい、下手に返事したら泣いてるのがばれそうなので頭ブンブンと音がしそうに振って頷いた。
佐野が極上の笑みを浮かべてこっちを見てるので、なんか正視できなくて、手早くそのあたりを片づけるとベッドの梯子段登りながら(そうするととりあえず佐野から顔見えないかな、と思ったのだ)深呼吸ひとつしていった。「佐野、ありがとね!!」
佐野はなんだかくすくす笑っている。「はいはい」なんかこういう問答ってくすぐったい。ベッドに隠れてしまった瑞稀はそのまま眠ってしまい、こうして特別補習はほんわりと幸せな気分で幕を閉じたのだった。


後日。
新学期の実力テストでもかなりまともな点が取れて、カルタも20枚近く取れた瑞稀のがんばりに、藤井寺先生はいたく感激した模様で二人を国語科準備室に呼びだした。「芦屋くん、本当に、がんばりましたね」「佐野くんも、ご苦労様でした。どうです、人に教えると本当に身につくでしょう」「はあ」
「ところで、相談なんですが、次は源氏物語の概要を把握する…なんていかがでしょう?」
「……」
「今度はちょっと骨かも知れませんが、なあに、君たちならきっと大丈夫ですよ」
実にタイミング良く、誰かをを呼び出す放送のやたら明るいチャイム音が入り、二人は反射的にスピーカーを見上げた藤井寺先生を残して、ダッシュでその場を逃げ出したのだった。

(おしまい)

ちゃん太註) 「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば 
   忍ぶる事の 弱りもぞする」(式子内親王)
   忍ぶ恋の苦しさを歌った歌です。
   作者は齋宮で、恋愛の許されない立場にいた人でした。
   「玉の緒」は命のことですから、だいたいの意味は、
   「私の命が尽きてしまうのならそうなった方がいい。
    このまま命ながらえれば、私はこの想いを忍び続けることが
    できなくなってしまうだろうから。」といった感じでしょうか。

(高校時代習ったことなのでうろ覚えです。間違いがあったらゴメンね。)

ああもう、こんなに苦労するとは思わなかった。
ふたりに百人一首をさせたいとふと思ったのは確か半年前。書き足しては削り、また書き足して。
お勉強シーンも細かい部分ほとんどカットして、カルタシーンをばっさり削って、やっと少しはまとまりがついたけれど、なんだか惜しかったかな。
しかし、長いわりに内容が無いなあ…

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