カケラ・b
37.5


寒い、と思ったときにはたいてい遅い。

性別を偽る身の苦労は様々だが、病気関連もその中に含まれる。
それでも芦屋瑞稀の場合は、事情を知っている「味方」の仲に医療関係者が含まれているのでかなり恵まれてはいる。
とはいえ、彼以外の医者にかかる事態は避けねばならない。
幸い瑞稀は健康には恵まれている方といえるが、それでも平素から病気には細心の注意を払っている。万病の元たる風邪を寄せ付けぬよう、うがい・手洗いを励行しているし、冬が近づいてきた昨今は起き抜けにこっそり乾布摩擦していたりもするのだ。あまり人に見せられる姿ではないが。

なのに。

寝過ごしたかな、と思った。すっきりとは言い難い目覚め。なんだかちょっと頭痛がする。念のため熱を計ってみた。
37.5度。
正直熱っぽいという感じはしない。デジタル体温計の調子が悪いっていうことも十分考えられるよね、と自分に言い聞かせて、瑞稀はいつもより一枚余分に着込んで学校に向かう。
欠席者がちらほらいる。いつのまにか風邪、流行ってたんだ。授業はなんだか集中できない。のどが痛いわけではないのだけれど気のせいか声が出にくい。
お昼休み、梅田北斗の元に駆け込んだら、保健室の体温計も自室のと同じ値を示した。

すべての事情を知るこの保険医は、にやにや笑いと心配そうな表情を両立させている。
「言っとくが、これから上がってくぞ、熱。」
背中を駆け上がる悪寒がその言葉の正しさを伝える。
「風邪は保温と休息と栄養だ。ほれ、薬もやっとこう。そうだな、2日ほど休めよ。診断書つき欠席届、事務に回しといてやろう。」

結局早退になってしまった。

思わぬ時間に帰寮した瑞稀に、裕次郎も気配を察したのかしっぽを振るだけで飛びかかってこない。
管理人さんは「冷えピタあるよ?」とわざわざ瑞稀を呼び止めて出してきてくれた。
「病院、行くかい?」
「校医さんに薬もらいました」
「それならいいんだけど。具合悪くなったらすぐに言うんだよ。お大事に。」

まだお昼で周囲が明るい中、人の気配のないしんとした寮で、ひとりベッドに横たわっているのはなんだかとっても変な感じがする。
まるで、自分がここにいることが夢で、今アメリカにいる自分の本体が目覚めかかって夢の中の自分を消そうとしているかのような、非現実的なというか非現実にされそうなというか。
熱のせいで後ろ向きになる考えを、朦朧とした意識の中、懸命に修正を試みる。

…とにかく寝なくちゃ。
風邪には休養と栄養だって、センセも言ってた。
昼ご飯何食べたっけ。あ、食べてない、そういえば。
まあ別にいいか。別に食欲もないし。
とりあえず枕元に自販で買ったスポーツドリンクあるし。

あれ。
あたしひとりしかいないのに、なんだかこの部屋って佐野の感じがする。
佐野のにおいがするのかな。ヘンなの、今あんまり鼻利かないはずなのに。ふふふ。
熱のせいかな。そんなこと思うのって。
でも、なんか嬉しい。

…空っぽの寮の中、空気にとけ込んだ佐野が自分を優しく包むイメージは瑞稀をおだやかな眠りへと誘ったのだった。

瑞稀が目覚めたのは、何か冷たいものが頬に当たったからだった。
周囲は薄暗く、窓の外は真っ暗で、シャワーの音がかすかに聞こえる。佐野が帰っているのだ。瑞稀を起こさないように部屋の電気は落としたままにしてくれているらしい。
首を回すと、枕元にコンビニの袋がおいてあった。
かさこそと開けてみると、サンドイッチと、スポーツドリンクと、ピーチフレーバーのアイスクリーム。冷たいものの正体はこれだ。
思わず頬をゆるませると、袋を元通りにして、何もなかったように寝たふり。
さあ、今のうちにどんな風にお礼するか考えなくちゃ。

こんな病気の日も、ちょっと悪くないかも、と思いながら、瑞稀は佐野がシャワールームから出てきて自分の様子をうかがいに来るのを、どきどきしながら待つのだった。きっとこの数十秒でかなり熱が上がってる、と思いながら。


☆ちるだ舎メールフォームのお礼に長いこと置いてありました。これも三十題のボツ作品です。

ちるだ舎