prime numbers


「もしかして、この状況は…」
レインが突然悟ってしまったのは、もうすでに選択の余地がない段階だった。

近頃ようやくその思いを告げ、特別な呼び名で呼ぶことを許された恋人アンジェリークと、タナトス退治の依頼からの帰り道。
日は思いの外短く、気がつけば街道沿いにはすでに宿泊施設はおろか民家も人影も皆無だ。
こんな時、野宿するのは初めてではない。
だが、互いの思いを打ち明けあってからこんな状況になったのは初めてだ。

その動揺を悟られないように野宿することをアンジェリークに告げ、とりあえずテントを組み、火をおこす。
アンジェリークは無邪気に、「今夜はちょっと冷えるわね」と微笑む。
「そのぶん星がきれいね」

お前、余裕ありすぎないか?もう少し危機感ていうか、無いものか。

街道から少し入った、大木のそば。あたりには民家もないので、人通りもない。
暗闇に浮かび上がる炎は、まるで世界中に今自分たち二人しかいないかのように錯覚させる。

いつもと光源が違うだけでこんなにも変わるのか。そう密かにレインを感嘆させるほど、アンジェリークはいつもと違ってみえた。複雑な陰影がその表情をより神秘的に、より美しく、身体のラインまでより扇情的に見せる。

ラ、ライン?
焚き火越しにアンジェリークを凝視している自分に気がついて、レインは慌てて座り位置を変える。とりあえずアンジェリークの正面にならないように。目を合わさないように視線を落とした時、今度は胸や腰に目がいくっていうのはナシだ。

夜の底にいるように静かだ。
フクロウの鳴き声と、風が木の葉を揺らす音と、火のはぜる音だけが聞こえる。
たとえば、いま、叫び声を上げても、誰にも聞きつけられない。
そんなことをうっかり意識してしまってからレインはひどい自己嫌悪に襲われた。

落ち着け。落ち着くんだ。
こんな時には、そう、数字だ。無機質で冷たい数字が暴走しようとする脳に冷静さを取り戻してくれるだろう。

素数を順に数えながら、レインは夜空を見上げる。脳裏をかすめたよこしまな思いを押し流すように。
同時に、他の者はこの状況でどうするのか、と思ってしまう。ヒュウガはおそらく祈りの言葉、教典の一節を唱えるのだろう。ニクスは悔しいがこんな状況で困ったりはしないに違いない。ジェイドは――アーティファクト的にはこのテの感情は織り込まれ済みなのか?まさか。

そこまで考えた時、アンジェリークが不思議そうに何を考えているのかと問う。

「…頭の中で数式を」正しくはないけれど、あながち嘘ではない。

そこで納得してくれると思ったのに、彼女の目は更に詳しい説明を乞うている。

「アーティファクトの諸理論を体系づけるメタ理論に必要とされる数式…」
なんだよそれ。自分につっこみたい気持ちでいっぱいだったが、アンジェリークはその答で満足したようだ。

「それが簡単な説明なの?」おかしそうに瞳をキラキラさせるので、なるべく瞳を見ないようにして、詳しく説明すると朝までかかると弁明する。

「レインってすごいのね」

馬鹿、騙されるな。こんな簡単にごまかされてるんじゃない。いや、今回はこれで助かったけれど、次からは絶対ダメだ。――オレ以外の時には。
自らの思考のいっそ清々しいほどの身勝手さに思わず目眩を覚えつつ、上手くその場が収まったことに感謝する。

アンジェリークは少し恥ずかしそうな表情でぽつりぽつりと話し始める。

「私、あれから毎日新しいレインに会えている気がするの。いつもの冷静なレイン、ちょっと幼い感じがする可愛いレイン、博士って感じのレイン、私を引っ張ってくれる頼りになるレイン。
今夜のレインは私に会う前の研究者のレインに近いのかしら?それとも未来のレインに今出会っているの?」

そして、ふくれあがる愛しさにとどめを刺すひとこと。
「どのレインも大好きだけど」

ああ、300番台まで突入した素数などクソ食らえ。もう事後承諾でいいよな、とアンジェリークを抱き寄せようと腕を伸ばしかけたレインは、それまでおとなしくしていたのですっかり存在を忘れていたエルヴィンに突然飛びつかれると、思いきり引っかかれてしまった。

やっぱりこいつ猫のふりした犬だ。
そう実感しつつ、エルヴィンを叱るアンジェリークを、エルヴィンはお前に早く休めって言いたいんじゃないか、なんて言いくるめてテントに追いやることに成功したのだった。


後日アンジェリークがあろうことにかニクスにこのやりとりを披露したことが判明し、ほとぼりが冷めるまで研究と称して部屋にこもることになったのは、また別の話だ。


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