薔薇とヘリオトロープ
ミントティーとバラのジャムとアップルパイの乗ったトレイからは、それぞれ香りが立ち上る。清涼感のあるミントの香りも、高貴な薔薇の香りも、リンゴの甘さや、バターの香ばしさにすっかり押されている。階段を昇る時にはそれほど感じなかったのに、廊下にはいると改めて混ぜ合わされたり競い合ったりする香りの多重構造に気づく。
ちょっとくどい気もするけれど、とりあえず食欲はそそられるわね。
ノックをしても、返事がなかった。
しばらくためらっていたアンジェリークだが、思いきってドアを開けると、部屋の中にすべりこんだ。
果たしてレインはデスクに突っ伏して寝ている。アンジェリークがすぐそばまで来ても少しも目ざめる気配がないということは、居眠りというよりはもっと本格的な睡眠のようだ。
平らな場所がほとんど見つからない部屋の中、トレイをどこに置くべきか見渡したアンジェリークは、しばらく逡巡した後、デスクの横に積み上がっている資料の山のてっぺんに慎重に設置した。
……階段の上にこのフロア用のワゴンが欲しいわ。フロア用っていうかきっとレイン専用になるけれど。
それからベッドからブランケットをはぎ取るとレインのむき出しの肩に掛けてから、簡単にベッドとシーツを整え、トレイをベッドの上に安置しなおしてからデスクのレインの方を見やった。
いつもこんな時、ドキドキするけれど、優しい気持ちにもなる。なのに今日の自分はおかしい。どうしてか、ひどく胸がつまる。レインのそばに行くのがこわいような気がする。自分が自分を離れたがっている感じがするのだ。
心を落ち着けようと一度深呼吸してみて、改めて原因に思い当たった。
匂いだ。
閉め切った部屋の中、トレイの上の香りとこの部屋に元々あった香りが混ざる。
咲き始めたヘリオトロープの甘い香り。そしてシーツにこもっていた、レイン自身の、におい。
嗅覚は本能を揺さぶるというのはどうやら本当らしい。レインのことが好きな自分の感情とはまた別のベクトルで、この部屋の中のにおいに酔っぱらっている自分はどこかわからない方向に暴走しそうだ。
私は、私に負けるかもしれない。
知らない自分にまだ向き合いたくないアンジェリークは、レインの部屋の窓をほんの少しだけあけると、急いで自分の部屋に戻った。今度は何度も深呼吸をする。何度深く息を吸い直しても、鼻腔の奥深く、もしかしたら脳髄の先に染みついたレインの部屋のにおいは取れない気がした。胸が苦しい。
何か別のいいにおいのものを。
ふと思いついてドレッサーの引き出しを開けた。ハンカチーフの段の奥、香りを移すようにと入れておいた香水石鹸。
そのラベルに薔薇とヘリオトロープの絵が描いてあることに今回あらためて気がついて、アンジェリークは脱力して引き出しを元通りに閉めたのだった。