オレンジの博愛


早朝のサルーンには甘い香りが漂っていた。
その源は、急遽納戸から運び出されたらしい大きな花瓶の中の、オレンジの大枝だ。
元がかなり大きな木だったらしく、みごとな枝ぶりで、白いつぼみをたくさんつけて、ちらほら咲いているものもある。

アンジェリークがその花の香りを楽しんでいると、キッチンの方からものすごく嬉しそうなジェイドがやってきた。
「おはよう、アンジェリーク。気に入って貰えたようだね。コズで剪定した枝を譲ってもらったんだ」
「おはようございます、ジェイドさん。とってもいい香りですね。甘くて、なのにさわやかで」
ジェイドさんみたいにね、と、それは口に出したりしない。
「大好きだわ」

「だろう。でもね、この枝のお楽しみは花だけじゃないんだ」
「え、じゃあ、もしかしてこのままお花のあとは実がなったりするんですか?」

想定外の答だったらしく、ジェイドは一瞬目をみはったが、すぐにまたとろけるような笑顔を浮かべる。
「ああ、そうだね。今度コズに行ったら、この枝にも上手く実をならせる方法を習ってこよう。約束するよ」

そして、宝物を公開する少年のように目を輝かせて、葉が密集した部分にアンジェリークの視線を誘導する。
「ほら、この葉っぱの裏なんだけれど」

濃い緑の葉の裏には、小さな丸いものがびっしりと並んでいた。

反射的に叫びたくなるのを必死で押しとどめる。その反応はこの優しい、善意の塊のようなひとを傷つけてしまうだろう。さいわい、どうにかして笑顔を作ろうとややうつむき加減でいるのを、ジェイドはアンジェリークが熱心に観察中だと誤解してくれたらしい。

「素敵だろ?ヒュウガに聞いたんだ、アンジェは蝶が好きだって。これがみんなちゃんと育ったら、庭が揚羽蝶でいっぱいになるよね。楽しみだな」

アンジェリークは、頑固で自己完結傾向の強いヒュウガの説得は難しそうだから、と、蝶に関する誤解を解かずに放置した自分の迂闊さを思いきり呪った。
ていうか、誤解は自分の中だけで完結させておいて欲しかった。切に。

とりあえずジェイドさんが思いきり幸せそうだから、悲しませてはいけないわ。まだ卵だから、孵るまで毎日理科の図表集に載っている虫の絵を眺めて訓練しなくちゃ。芋虫の集団が乗った小枝を見せられても悲鳴を上げないでいられるぐらいに。

「あ」
ジェイドが声を上げる。

「ほらこっちに赤ちゃんがいるよ。可愛いなあ」
視界の隅でうごめくものをなるべく意識しないように、アンジェリークはジェイドに話しかける。

「本当に素敵なお土産をありがとうございました。ところでジェイドさんはキッチンで何かつくっていらしたんですか?」
「あ、そうそう、忘れるところだったよ。さあ、皆を呼んで朝食にしよう。食後のお楽しみに新作のケーキもあるんだ」

これで当座を切り抜けたと思ったアンジェリークは、そこでうっかり気を抜いてしまった。だから、食後に現れた巨大な芋虫をかたどったケーキ(緑のマジパンをかぶせたオレンジケーキなのだそうだ)に小さく悲鳴を上げてしまうことになったのだ。

レインやヒュウガの気遣わしげな視線が痛い。当のジェイドは戸惑った表情を浮かべている。
「嬉しい悲鳴、というところですね」とのニクスのフォローに心から感謝しつつ、引きつり気味の笑顔の陰で、いつどのように真実を告げるか、やっぱりこのまま隠し通すのかといつまでも迷うアンジェリークなのだった。


カルディナン・プレスへ