ミゼルの失敗


その日の女子更衣室は、ゼネラルマネージャーからの通達の話題で盛り上がった。
いわく、
「ジェットにこのフロアの書籍を無許可で閲覧する権限を与えた。対象になるのは各人のデスクの上と部屋の書棚にある書物。以後、個人所有の書物であってもとくに所有者に許可は取らないので、見られたくない場合はデスクの鍵付き引き出しやロッカーの中に収納すること」。

「本当にあのチビ眼鏡、ワンマンって言うかなんというか」
ここ女子更衣室ではゼネラルマネージャーの評価はすこぶる低く、チビ眼鏡というあだ名が定着している。時にはアレ、と呼ばれることもある。私は彼に関しては特に思うところもないし、むしろそのあだ名は気の毒だとすら思っているけれど、そこは空気を読んで呼び方に異論をはさんだりしないのだ。

「そもそもジェットって誰だっけ」と思わず口にすると
「あらミゼル知らないの?ほらいつもチビ眼鏡にくっついてる黒っぽい格好のでかい人」と即座に答が返る。

「あー、あのサングラスの」と了解すると、それぞれの意見が述べられることになる。
「そうそう。なんか妙な迫力あるよね」
「あ、でもじっくり見るとなかなかの美形だよ」
「そうなの?なんか雰囲気恐いんでまじまじと見たこと無いよ」
「それはもったいない。あの体格、あの容貌、チビ眼鏡のお気に入りだから間違いなく出世株。正直これは狙い目よね」
案の定というか、話は脱線しはじめる。
「確かにそう言われれば」
「…私はパスかな。アレのお気に入りだったら仲良くなっても愚痴れないじゃない」
「ちょ、今からそこまで考えるの?」
「財団の一員としては当然よ。あらゆる可能性を考慮しておくのは基本だわ」
そこで皆さんざに笑いさざめきあう。

「いくら狙い目でもしつこく追い回して辞めさせてしまったりしたらダメよ」
「レイン博士の二の舞はゴメン」
レイン博士は、頭脳・容貌・将来性どれをとっても超一流だったので、少し若すぎるという点を除いては2年前まで更衣室のトップスターだったが、突然失踪してしまった。その原因にはいろんな説があるけれど、ここ更衣室では、あからさまに取り入ろうとする女の子たちの露骨で執拗な攻撃に疲れたのも一因だと信じられているのだ。

なんだか不思議に思うのだけれど、自分も含めてここの女の子たちのほとんどは、小さい頃から財団の英才教育プログラムのもとで学び続け、カルディナ大学を卒業し、地元の誇る天才少女の看板をしょって財団の研究員になったはずなのに、更衣室での話題といえば本人または共通の知り合いの誰かの恋愛事情、グルメ情報にバーゲン情報、に尽きる。
要するに皆、自分たちの研究に疲れているのだ。美味しいものやキレイな物に癒しを求め、さらに大恋愛したり結婚したりで生活を変えようと夢見るのは究極の現実逃避といえるだろう。

以前はもっと夢と希望に溢れた研究も多かったのだけれど、現在財団でなされる研究のほとんどがタナトスがらみだ。タナトスそれ自体の研究、浄化能力者と女王の持つとされる能力の研究、そして対タナトス兵器ジンクス。この更衣室を使うのはジンクスチームの面々が中心だ。
たしかに研究のしがいはある。今まさにこの世界で求められている研究だと、信じられる。
でも、殺伐としている。潤いが足りない。
例えば自分は兵器の開発というテーマ自体に少しばかり抵抗がある。同じように言う同僚も少なくない。
ジンクスチームの責任者がゼネラルマネージャーであるエレンフリート博士だということも影響していると思う。確かに彼は財団を出てしまったレイン博士と張り合えるぐらいの天才かも知れないけれど、神経質でピリピリしたところがあったり、自分の非を認めようとしない傾向がある。おまけにその事に本人が無自覚なのが更にタチが悪い。
プロジェクトの進行を、理詰めのみでどんどん押してゆくのもつらい。研究員とくに女の子たちの体調になど、もちろん気を配る気はないようだし。まあ、そこまで考えろっていう方が無理かも知れない。要するに、頭はいいけれど幼いのだ。14歳なのだから実際問題どうしようもない。


さて、私は緊急に本の整理をしなくてはいけないようだ。なんだか心すさむ毎日、デスクの上に並んだ本の中、お気に入りの花の写真集と少々少女趣味な詩集をこっそり混ぜ込んであるのだ。いや、こっそりというのは嘘だ。今や本棚の方はぱっと見こそ私の専門のオーブに関する専門書が並んでいるのだが、その何割かは流行の恋愛小説だったりするのだ。もちろん、束の間の気晴らしとして。

翌日早めに出勤した私は早速デスクと本棚の整理をする。本を持ち帰るために持ってきたトートバッグはすぐに一杯になって、何冊かは入りきれなかった。全部を持ち帰るのは諦めて、とりわけよく専門書に擬態した数冊をそのまま残す。今日中にばれてしまうなんて事は無いだろうから、明日持って帰ればいいだろう。

廊下で噂のジェットとか言う人とすれ違った。軽く会釈をしたが、にこりともしないで無表情のままなのは、ヒラ研究員になぞ興味はないということなのか。ちょっとあんまりな態度に腹が立つ。別の世界の住人なのだとでも思っているのだろうか。ヒラ研究員の意地で私は思いきって話しかける。
「おはようございます。今日からこのフロアにいらっしゃるんですか?」
「そうだ。出動命令の無いときはこのフロアのあらゆる書籍を読み、内容を把握する事になった」
彼は無表情のまま、私の目を見下ろすと、抑揚のない調子で答えた。視線に射すくめられた上に、思いがけずいい声で私はうろたえる。
「え、そんなことが可能なんですか」内心の動揺は隠せているのだろうか。何もかも見通されている気がする。
「俺は完璧な、…だ。不可能はない」
そう答えると、こちらを振り向きもせずにそのまま行ってしまった。ゼネラルマネージャーに呼ばれているのだろう。
私はその後ろ姿をいつまでも見送った。目が、はなせなかったのだ。

その語る調子に、ちょっとした仕草に、そして声と怜悧な風情に、私は思いがけなく射貫かれてしまった、らしい。なにぶん経験値が低くて自分でもよくわからないのだが、世間ではこんなのを一目惚れって言うのだろうか?
ああ、それにしても、彼はさっき、「完璧な」、なんだと言ったのだろう?


こんな時、どうすればいいのか実はあまり詳しくない。
それでも、長年女子更衣室の話題を聞いてきた知識の集積を今こそ役に立てるときが来たような気がする。
ともかく、第一段階としてはアピールあるのみ。
少し考えて、私はせっかくトートバッグに入れた恋愛小説をもう一度専門書に擬態して本棚に並べた。もし彼がこの本を手に取ったら、わかりやすい「募集中」のサインになるだろうと思ったから。
そこまでわかってもらえなくても、お話しできるきっかけにはきっとなるだろう。
「こんなコトしちゃまずくない?」と軽く笑ってくれればいいのだけれど。真剣に叱られる可能性もあるけれど、それも結構濃い絆よね?


その日の午後から彼はうちのフロアに入り浸るようになった。
文字通り片端から書物を手に取り、読んでいく。
フロアの片隅には彼専用の折りたたみデスクが置かれた。そこに窮屈そうに収まって信じられないスピードでページを繰る。カルディナにいた頃、心理学の教室にいた同級生が速読を研究していたけれど、彼はそれをマスターしているのだろうか。時々立ち上がると、読む順番と読後の疑問点について、本来の持ち主に直接確認しているようだ。ということは私にも公然とお話しするチャンスだけはあるのだ。
この速度から計算して、私のエリアに彼が到達するまで、3日ぐらい。

仕事中、怜悧で端正な彼の横顔を盗み見る。ああいう大きな男の人にこの形容はどうかと思うけれど、すごくきれいだ。落ち着いた風情。長い指。なにもかもにドキドキする。その一方、自分の仕事もがんばろうと思えるから不思議だ。



初恋は実らないもの、という知識はあったけれど。
心ざわめき、気持ち華やぐ至福の時間は翌々日あっけなく終焉を遂げた。


「理解不能だ」
「知識の獲得を目的としない書物が存在することは認識していたが、遭遇するのは初めてだ。なぜここにそんなものが」
研究になんの関係もない本を持ち込んでいたことを彼はそう評価した。こんなにもがちがちに真面目な人だとは想定外だった。彼は初め軽く混乱したらしい。そして本の擬態を認識するとかなり強い調子で私の意図を詰問し、答えに詰まった私を見て呆れたように言ったのだ。
――あなたのことが気になったから、お話のチャンスをたくさん作りたいって思ったんです。
本当はそう言いたかったけれど、無表情な赤い目が底知れない感じで恐かった。私はなんて身の程知らずだったのだろう。こんな恋などしてはいけなかったのだ、とその時初めて気がついた。

そんな私に気づいているのかいないのか、彼は更に追い打ちをかける。どうも恋愛小説というものの存在が理解できないらしい。
「その書物の舞台が観光名所ばかりを転々としているのはなぜなのだ」
「主人公は頭がいいという設定なのになぜ何度も貞操の危機に陥りながらも学習しないのか」
――「そんなの、ただのお約束」だということを、どう説明すればいいのかわからない。っていうか、私に聞かないで。



これで私の間抜けな初恋話は終わると思ったのだけれど、甘かった。
翌日私はゼネラルマネージャーに呼び出された。正直心当たりが無かった。前日の件は、個人的にはともかく、仕事上ではそれほど大きな失敗だったとは感じていなかったのだ。

部屋にはいると、隣に彼を従えたゼネラルマネージャーは大げさにため息をついた。
「まったく、こんな浅はかな考えの研究員が自分の部下だなんて、信じられませんね。性別で部下を差別する気はありませんでしたが、正直こんな女性職員は扱いかねます。」
え、ちょっと、どうしてここまで大きな話になっているの、と私は混乱する。彼の方をちらりと見ても全くの無表情で何一つ伺えない。そこから始まった長いお説教の中で、とにかくゼネラルマネージャーは、私ごときが彼ことジェットに色恋沙汰を仕掛けようとしたのが許せないらしいということがようやく伺えた。そんな大げさなものじゃないつもりだったのだけれど。

黙ってお説教を聞かされている間に話は思わぬ方向に転がる。
「そうそう、あなたはオーブがご専門でしたね。喜んで下さい。来週から虹華の森のオーブ鉱脈にある研究所に勤務していただきます。花が咲き、美しいオーブがとれる、ロマンティックないいところですよ」
私は固まった。
もしかして、あれぐらいのことで飛ばされるの??
そりゃ、ジンクスチームより鉱脈の方が専門に近いし殺伐度も低いだろうけど、でもこれって明らかに失敗して飛ばされているってパターン。少なくとも傍目からは。

「あなたはロマンティックがお好きなのでしょう?」
なによそれ、イヤミ?そう言い返してやりたかったが、やはり何も言うことができなかった。状況は私にあまりにも不利だ。
結局私は終始無言のまま、彼から渡された虹華の森への辞令を手に、一礼して部屋を辞そうとした。

「ああ、私から最後にひとつだけ。何か勘違いしているようですが、ジェットは私が復元した古代のアーティファクトです。ご存知なかったんですか?」
ドアに手をかけた私はその姿勢のまま固まったが、そのままこわごわと彼の方を見た。
嘘だ。いくら無表情だといっても、そんな。でも、そういえば。
こんなに凝視しては失礼だと気がついて目をそらすまで一体どのぐらいの時間が経過していたのか。

「まったく、素晴らしいじゃありませんか。ジェットが人間ではないという可能性を少しも感じない者もいるということが。古代の技術水準に私も少しでも近づけたのかもと思うと嬉しくてなりませんよ」
「そう、俺は完璧なアーティファクトだ」
2人の声を遮るようにして私はドアを閉めた。


フロアに戻るまでの間、財団員になってから今までのことが走馬灯のように脳裏を巡る。で、気がついた。
よく考えると、今回は私の失恋にカウントしなくていいのだ。ジンクスチームに配属されている違和感ともこれでさよならだ。
そうだ、これはチャンスだ。私は新しい日々を手に入れるのだ。財団女子はこれぐらいのことで負けないのだ。
そう自分に言い聞かせながら、私はデスクの引き出しの中味をバッグに詰め替えはじめるのだった。


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