キャラメル・ビスケット


知っていたつもりだったとはいえ、10年の歳月は実に長いのだと、ベルナールは自分の覚悟の足りなさを実感した。まだまだ甘いお菓子よりも好きなものがあるとは思えないあの小さなアンジェが、こともあろうに「恋愛について兄さんはどう思います?」なんて言い出したのだ。

驚いた。どちらかというと、参った。

余裕ある大人というよりは意地悪な兄さんになって、それが大人扱いされたいあまりの発言かどうかを伺う。
子供っていうのは、むしろ褒め言葉に近いつもりだった、ということが上手く伝わらないのがもどかしい。
それでも彼女は、子供だというベルナールの認識を振り切って、一歩先を進もうとしているようだ。
「実は、好きな人がいるんです」と言って頬を染め、少しうつむく。
その言葉と表情は、ベルナールの対アンジェリーク専用「子供フィルター」を破壊するのに十分だった。

考えてみたら10年経ったアンジェリークは16歳なのだ。16歳は大人と言えるかどうかは微妙だが、子供ではない。そんな単純なことに気がつかないなんて。自分の底の、あまり認めたくない「あの日に帰りたい願望」は、なんだか情けないほど強力だったというわけか。それとも扱いにくい年齢であることを知っているからこそ目をそらしていたかったのか。

ともかく、フィルターを外してみると、少し羞じらいを浮かべた目元は、確かにベルナールの記憶の中の小さなアンジェとはまったく違っていた。いつの間にこんな風に、そう、表情の端々に色香をにじませるようになったのか。
好きな人の存在とやらは、大人扱いされたいためのはったりなどではないのだろう。恋はこんな風に少女を変えてゆくのだと、見せつけられている気がする。庇護すべきと思っていた小さな女の子が知らない間に大人に近づいていたことを認識するのは、驚きであると同時に何とも形容しがたい複雑な気分だ。

しかし今なぜこの話題なのだろう?
とりあえずお兄ちゃんと思って貰えているからこそ、だとしたら、自分の正体を告白したことで、身内にふさわしいレベルで信頼されるようになったと言える。ずいぶん距離が近づいたものだ。それは単純に喜ばしい。
でも、好きな人、か。それはこれからせっかく縮まった距離が離れていく予告だということを彼女は気づいているのだろうか?
先日偶然酒場で再会した大学時代の友人が、酔いが回るにつれ、妹が遠くに嫁ぐ寂しさを涙混じりに訴えていたことを思い出す。自分の感じるこの複雑な気分は、きっとあれに似たものなのだろう。
そんなことを頭の片隅に置きつつ接するうちに、時間は瞬く間に過ぎ、アンジェリークは帰って行ってしまった。

来客のなごりのコーヒーカップを片付けながら、ベルナールは結局追及しそびれたアンジェリークのお相手は誰なのかをぼんやり考えていた。
しかし、オラージュで火災が発生したという一報は、少し甘く感傷的な世界から彼を一気に現実に引き戻したのだった。
幸い火災の規模は小さく、けが人なども出なかった。取材先から帰り、一気に原稿を書き上げたが、少し気になる点があったので資料を集めてみる。やはり、このような原因不明の小さな火災はここ半年あちこちで起こっているようだ。これらに何か共通点がないかもう少し調べてみる必要がある、と結論づける頃には日付が変わろうとしていた。

少し休憩しようとコーヒーを入れに立つ。ついでに、同じ棚に入っていたビスケットを取り出した。これはハチミツビスケットではなくキャラメルビスケットだ。同じ会社の新製品とやらで、パッケージのデザインもロゴもほぼ共通の色違いだったから、何か変だと思いつつ間違えて買ってしまったのだった。
ビスケットからの連想で、思考は仕事を離れてアンジェリークのことに戻る。
考えてみたら、今の彼女に、その恋心について相談する相手がいるのだろうか?学校時代の友人とは手紙のやりとりはしているようだが、それほど頻繁には会えないと聞いている。だから明らかに相談相手として最適とは言えない自分にお鉢が回ってきているのだ。だとしたら、もし彼女の悩みがそんなふうに差し迫ったものならば、誰か信頼できる女性にでも相談相手をしてやって欲しいと頼んだ方がいいような気がしてくる。でもそれはお節介が過ぎるし、第一誰にどういう風に頼むのだ。
あるいは現在彼女の実質上の保護者とも言えるニクス氏にすこし話を通してみるのもありかもしれない。
…ダメだ。彼が当のお相手でないと断言できない以上、それはナシだ。

こんな風に考えがまとまらず、ややもすれば暴走しがちなのはきっと疲れているのだ。そう思ってベルナールはビスケットを一枚口にした。
ハチミツビスケットと同様の甘ったるい味を予想していたそれは、甘さよりむしろキャラメル特有の苦みを利かせたものだった。
近頃こういうちょっと大人の味のお菓子が流行っているようだ。苦いものがとても苦手だった彼女も、そのうちハチミツビスケットよりこちらの方を好むようになっていくのだろうか。いやもしかしたら、もう既に好みも変わってしまっているのかも知れない。自分が知らないだけで。

一気に飲み干したコーヒーは、いつもよりひときわ炒りが深いように感じられたのだった。


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