天蓋


泣いて泣いて泣きつかれて眠り、遅く起きた翌日。きのうあんな事があったのが嘘のように、空は澄み渡り、風は優しく吹いています。
キッチンの片隅には私の分の朝ごはんにナプキンがかけられて置いてありました。濃いめのお茶を入れて、そのままキッチンテーブルで食べてしまいます。
皆はまだサルーンかしら、ぼんやりとそう考えていると、庭の方からヒュウガさんの声が聞こえてきました。槍のお稽古中のようです。食器を片付けてからサルーンに行ってみると、やはり誰もいません。さっき私が階下に下りてきたときは、レインとジェイドさんとヒュウガさんの3人が揃っていて、こちらの方に気遣わしげな視線を送っていたのですが。
しばらくサルーンのソファにかけてぼんやりしていました。今日はエルヴィンがうるさいほどまとわりつきます。心配してくれているのかも知れません。いまの私は猫にすら心配させるほどの状態なのでしょう。

それにしても、今まで知りませんでした。主を失った邸というのはこんなに奇妙なうつろさを漂わせるものだったとは。
実は先ほどキッチンで下ごしらえ中のお手伝いさんに尋ねてみたのです。なんでも、今年いっぱいまでは、たとえ主人が不在でも同じペースで通うようにと言われているそうです。

――何もかも覚悟していたのですね。
そう思うとまた涙が溢れそうになったので、私は少し天井を見上げるようにしてソファから立ち上がりました。
そのまま自分の部屋に戻ろうとして、ふとあることを思い立ちました。あのひとの、ニクスさんのお部屋の空気の入れ換えをしましょう、と。

あの人が帰ってきたときのために、窓を開けて、空気を入れ換える。
そんなのは言い訳です。でも、いくら恋人といえる関係でも、相手が不在の時に、無断でお部屋に入り込むには大義名分が要るのです。

エルヴィンと一緒に部屋に入って、窓を全開にします。カーテンが優雅に揺れるさまを、部屋の真ん中に立ちつくして、しばらくぼんやりと眺めていました。
そのまま振り返った部屋の中はきちんと片付いています。物はあるのですがなんだかがらんとしていて、そのあまりの生活感の無さに、また涙が浮かんできます。私は一体どうしたのでしょう。自分がこんなにも涙もろいなんて知りませんでした。

部屋の一番奥にある大きなベッドが目に入ります。
まだ知り合って日が浅い頃、とても気に入っているのだと聞きました。
「試してみますか?」からかうような口調と優しい声が脳裏によみがえります。
私はふらふらと歩み寄るとベッドに腰掛け、大きくため息をつきました。エルヴィンが足もとに寄ってきましたが、「ダメよ、ここは」と声をかけると納得したようにベッドを離れ、暖炉の前に丸くなりました。


少しためらってから、私は思いきってベッドに横たわりました。なんだかニクスさんのにおいがするようで、胸が苦しいです。
仰向けになって両手を伸ばし、あの人が気に入っていた天蓋越しの光とはこんな感じなのかとぼんやり考えました。
眠れないと言っていたあの人は、毎日この天蓋を、あきらめにも似た思いで眺めていたのでしょうか。
いえ、知っています。眠れなかったのは、自分の主導権を渡さないように戦っていたせい。
ここは、彼が彼であり続けるための戦いの場だったのです。
そして彼は今もきっと戦い続けているはずです。遙か時空の狭間で、たったひとりで。

この部屋に最後に入ったとき、どんな会話をしたのか、一生懸命思い出しました。確か、以前の話の続きをねだったのです。
「そうやって、あなたが私の話の続きを待ちこがれてくれているとは、なんと嬉しいことでしょう。
 ああ、ではせっかくですから、それにお答えするのはもう少し先にしておきましょうか。
 折に触れてあなたが私のことを考えて下さるように」
そんなことをしなくても私はいつもあの人の、ニクスさんのことを考えているというのに。
――結局、私はその話の続きをまだ聞いていないのです。

私は跳ね起きました。
少しでも早く、あの人を取り戻さねばなりません。世界のために。いいえ、誰よりも私が私のためにそうしたいのです。

ベッドをきれいに整えて、もう一度今度は立ち上がったまま天蓋を見上げます。
あの人がここに帰ってきて、心晴れやかな気分で、天蓋越しの光を心ゆくまで愉しめるように。
そのため、私は行かねばなりません。

私は部屋のすべての窓とカーテンを閉じると、すこし背筋を伸ばしてその部屋を出るのでした。


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