僕と私と彼女と彼と


恋をするひとは美しくなるというが、それがアーティファクトでも同じなのだろうか?

すくなくとも、アーティファクトの本来の性能的には美しくない、とエレンフリートは思う。
今日も完全無欠にできているはずの彼は絶不調だ。もっとも、その事に気づいているのはエレンフリートだけで、他の財団員も、もしかしたらジェット本人も気がついていないかも知れないが。

精密さは繊細さに、繊細さは脆弱さにつながることは理解していたし、覚悟もしていた。
だからこそ感情という名の不安定な因子については警戒も警告もしておいたというのに、このざまだ。
明らかに集中力を欠いているし、判断力も低下している。かろうじて業務に支障を来さない程度に。

彼の不調の原因はきわめて単純だ。
恒例の週末デートが、先週はアンジェリークの試験期間中のため中止されたからだ。

いったい何がどうなったのかエレンフリートには正直よくわからないのだが、エレボスを倒してアルカディアに戻ってきた女王の卵は、メルローズ学園の寮に戻り、勉学を続ける傍ら、なぜかジェットと交際している。無表情な大男のジェットが、まるで親鳥に依存しきる雛のように、アンジェリークに寄り添い、素直に彼女の言うことを聞いている様子は開発者としてはちょっと複雑だ。アンジェリークの方についてはともかく、ジェットがすっかり恋―あるいは恋のようなもの―に落ちているのは確かだ。二人の仲が実際どういうものなのかはなるべく考えないようにしているが。

正直今でも彼女さえいなければとか、せめてジェットとあんな風な関わり方をせずにいてくれたらとか思うことはある。そうすれば少なくともジェットの扱いにこんなに困惑することはなかっただろう。

ついこの間、何でもないところで考え込むジェットの奇妙な行動に思わずため息をついてしまった。
それを見ていたレイン博士が笑って、
「正直妬けるよな。わかるわかる。で、お前、どっちに妬いているんだ?」と問うたとき、答えに詰まってしまったのはものすごく屈辱的だった。でもその一方、他の誰かにも理解して貰えたことにちょっとした安堵も覚えたのだ。

で、実際どっち?
…それは考えてはいけないことのひとつだ。



水曜日の昼休みにアンジェリークが財団までやって来て、やっとジェットの絶不調は改善された。
ようやく試験が終わったのだ。
先週末会えなかった分、一刻も早く会いたいとリースから馬車を飛ばして来たのだという。
えっと、まあ、とりあえず、なんというか、ごちそうさま。

その週末、財団を訪れるのが今週2度目になるアンジェリークは、エレンフリートに面会を申し出てきた。

いったい自分にどんな用が?ジェットの上司としてなのか?あるいは開発者として?友、家族、どちらも遠くないけれど、自分とジェットの関係を表すものとしては正しくない。

エレンフリートは、すべてが終わった現在、アンジェリークについてはかなり正しく評価できていると自負している。お嬢様学校育ちだから、メルローズの優等生で収まっているが、もしも幼い頃からメルローズにいるのでなければ、財団の英才教育プログラムの目にとまり、今頃は同僚だったという可能性もあると思う。
元々の頭の良さ、素直さから来る吸収力、なによりもとても高い共感力。なんせ心を持たないはずのアーティファクトの心にシンクロ出来てしまうのだ。
部下にいたらプロジェクト推進の大きな力になるのは間違いない。
だが現実として、今はただ微妙な存在だ。

私室に通されたアンジェリークは、神妙な様子で切り出した。
「実はエレンフリートさんに相談があるんです」
「私にお答えできることなら。というと、ジェットのことですか?」
当然一緒についてきていると思っていたジェットがいないのはそれなりの理由があるのだろう。

「それも少し関係あります。あの、エレンフリートさんの学生の頃のご専門はアーティファクト…ですよね?」
「とくにその製作、ですね」
「勉強はずっと財団で?カルディナ大学にはいらっしゃいましたか?」
「ええ、人よりは短めの期間ですが、カルディナ大に在籍していたこともあります」

なぜそんなことを聞くのか今ひとつつかめない。エレンフリートの回答に、アンジェリークは小さく頷くと、続ける。
「実は思っていたより早めにカルディナ大学に進学できそうなんですけれど、専攻を医学にするかアーティファクトにするかここに来て迷っているのです」
それではオーブハンター時代のブランクは完全に帳消しになったのだな。なかなかやる。敵ながらあっぱれと言うところか。…敵?いけない、昔の意識が染みついている。

「あなたは小さい頃から医学を志望してらしたと彼から聞いていますが」
「ええ。ですが、この先彼と一生を共にするなら、やはりアーティファクトの専門知識が必要になるのではと。いつまでもエレンフリートさんに頼るわけにもいかないでしょうから」

今さらりと恐ろしいことを聞いたような気がする。一生を共に、だって?
知らない振りをしている間にそこまで話が進行していたのか!
動揺を悟られないように、努めて冷静に答える。

「彼のメンテナンスについては私と財団が責任を持ちます。たとえ私が直接行えなくなっても、引き継ぎは財団の名誉にかけても完璧に行いますのでご心配なく」
「それでも…」

エレンフリートはわざと大きくため息をついて言った。
「アンジェリーク。あなたはかつて女王の卵だったし、今もその力は残っていますね。違いますか」
「ええ、まあ、そうですけれど…」
今なぜそんなことを、とアンジェリークの瞳は訴える。

「あなたの女王の卵としての力はどんなものでしたか?タナトスの完全浄化だけではなかったはずです」
「え?…あ、オーブの力の完全解放…」
「そうです。そして、ジャスパードールたちはオーブの一種であるジャスパーがその活動の源です」
エレンフリートの話の趣旨を理解したらしいアンジェリークの表情がとたんに明るくなる。
「つまりあなたがそばにいることでジャスパードールの機能は安定し、その能力は向上すると考えてよいでしょう。だから、私としては初志貫徹をお勧めしますね」

「ありがとうございます!」
「何かを選ぶ時は不安がつきものです。女王の卵であったあなたですらそうだというのは、私のような者にとっては救いかもしれません」

「エレンフリートさん…すごく、大人なんですね」
「忘れていませんか?私はジェットの開発者、つまり父親と言っていい存在なのですよ」
「まあ、ふふふ」

…父親は無理があったかな、と思ったが、案外すんなりと受け容れられたようだ。

アンジェリークはまだくすくす笑っている。
「どうしました?」
「ごめんなさい、ジェットさんと以前、『財団ファミリー』なんて話をした時、エレンフリートさんのこと、さしずめファミリーの末っ子でジェットさんの弟かなっていう話になった事を思い出してしまって」
「…弟、ですか。確かにジェットは公には僕より6才年上ということになっています」

「あ、今エレンフリートさん、『僕』っていいましたね。ジェットさんに聞きました。すごく気を許している相手の前でだけ『僕』って言うようだって。嬉しいです」
前触れなく披露される花のような笑顔は、ちょっと心臓に悪い。

「そ、そんなことより、用はもう済んだのでしょう?ジェットがきっとしびれを切らしていますよ。早く行ってあげてください」
「今日は本当にありがとうございました。お礼はまた次の機会に」
「要りませんよお礼など」
「私がしたいんですよ。では」

扉を開けた場所に果たしてジェットはすでにスタンバイしている。アンジェリークの手を取ったジェットが自分の方をちらりと見てすこし笑った。日に日に、というか、アンジェリークと会うたびに表情が豊かになっていっている事を実感する。

見送るともなく廊下に立って二人の方を見ていると、肩を叩くものがあった。
振り返ると、ヨルゴ前理事がかすかに微笑んで立っている。

「お久しぶりです」
「元気そうじゃないか。君のプロジェクトもなかなかいい成果を上げているようだな」
「はい、ありがとうございます」

廊下の窓から裏庭をひょいと覗いたヨルゴにつられてそちらを見ると、アンジェリークとジェットが仲むつまじく歩いているところだった。

「…正直今の君の心情が一番理解できるのは自分だという気がするよ。手塩に掛けたものが成長して離れていくのは、喜ばしいことだとわかっていても、心の底から喜んでやるのは難しいものだね」
何を言われているのかすぐにはわからなかったエレンフリートだが、遠くを見やるようなヨルゴの表情を見て気がつく。ああ、そうか。レイン博士のときのことを言っているのだな。

「なあに、じきによりよい関係が築けるさ、君たちなら。彼女もいることだし」
そう言って、彼は軽く手をあげると行ってしまった。

いいえ、理事。彼女がいるからこそ、複雑度は増すのですよ。

エレンフリートは窓からもう一度外を見たが、もうあの二人を見つけることは出来なかった。


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