「兄さん」のアドバンテージ


アルティマ計画が始まってから、世の中はいっそう殺伐としてきた。そしてどこかある一点に向かって走り出している感じがある。終焉に、なんてことは絶対にあってはいけないけれど。
だからこんな風に突然訪れてくれた君と他愛のない雑談をするのは楽しいというだけでなく、自分に真に必要な癒しなんだと、会うたびに実感する。ある意味、君は、僕の、支えだ。

今日も世間の殺伐とは無関係に君の話は無邪気さに満ち、話題はひらひらとモンシロチョウのようにあちこちに飛ぶ。

「それで、ハンナ達が言うんです。もうちょっとよく考えて行動しなさいって。私それほど無鉄砲かしら」
「無鉄砲って言うことはないなあ。かなり勇敢だとは思うけれどね」
いくら特別な力があるからと言っても、タナトスと戦うことを仕事にする女の子には勇敢以外のどんな言葉を当てはめればいいのか。僕がそんなことを一生懸命考えている間にも、君の話は華麗に飛躍する。

「言葉と心の距離を知る方法があればいいのにって思う時があります。陽だまり邸の皆はとても優しいし、素敵な言葉をくれるのだけれど、だんだんそれが麻痺してしまってわからなくなるんです。本当に私はその言葉に値するのかって」
ちょっと待って、アンジェ。さっきまでの話とのつながりが僕には全然見えないよ。
もちろんそんな焦りなど見せてはいけない。だからさっきまでの話のことは忘れて、今の言葉にだけ返事をする。

「君が具体的にどんなことを指しているのかは知らないけれど、彼らは皆本心からの言葉を言う人たちだよ」
「だったらいいのだけれど。ことばって本当に難しい。でも兄さんは言うなれば言葉のプロなんですよね。すごいなあ」
前半はちょっとうなだれ加減だったのに、後半はまた嬉しそうで、表情の変化についていくのがやっとの僕はやはりもう若くはないらしい。

「そう正面切って言われてしまうと照れるなあ」
とたんにいたずらっぽい光を瞳に浮かべた君はすかさず言う。
「正面がだめなら後ろに回りましょうか?って、これレインの受け売りなんですけれど」
君はなんだかとても嬉しそうだ。一度使ってみたいとずっと思っていたフレーズが初めて使えてご満悦ってところかな。じゃあ、話の発展にちょっと貢献してみるか。

「…レイン君は若いのに案外なんというかオヤジくさい物言いをするんだねえ」
「普段はそんなでもないんですよ。でも何かの折に、ね。…やっぱり小さいときから周りに大人ばかりという環境だったからかしら」
「おやアンジェ、なかなか深い洞察をするんだね。って、それはもしかしてレイン君限定?今日もレイン君と来てくれたし、よく考えたらこの前もその前も…」
そんな風にからかってみせるけれど、本当はすごく恐れているんだ。君が誰かのことを特別に想っていることを。

「もうっ、ベルナール兄さん、何変な勘ぐりしているんですか!それってもしかして記者の職業病?だったら手遅れになる前に手当てしないと」
「あはは、ごめんごめん。それで、どんな手当てをしてくれるのかな?もちろん君が僕の主治医だよね?」
「そ、それは…えっと、5年ほど待ってもらわないと」
「おや、ずいぶん待たせるんだね」
「だって世の中が平和になって私がちゃんとお医者様になるまでだともっとかかりますよ。あ、でも今癒しの力を使ったら治るかしら?」
「え、僕が病気だって言うのはもう決定事項なのかい?」
そこで君はころころと笑い出し、僕も釣られて笑う。同僚がなんだか怪訝な目でこっちを見ているけれど、気にしたら負けだ。それにしても、肝心の質問がすっかりぼやけてしまったのは失敗だ。

「そうそう、今日はいつもと違うビスケットがあったんだ。味見するかい?」
返事を待たずにさっさとコーヒーのおかわりをいれに行ってしまったのは、もっと楽しく話していたい気持ちと、話をリセットしたい気持ちの妥協点。

「ありがとう、兄さん」
満面の笑みを浮かべる君は戻ってきた僕に対してまた突然話題を変える。

「あのね、私パパとママの結婚式の写真を持っているんだけれど、そこに写っているパパと兄さんは本当によく似ているのよ」
「それは…光栄だな」
「だから余計に本当のお兄さんみたいに感じるんでしょうね。でも本当のパパやお兄さんならこんなにいろいろなことはお話できないと思うの。そう思うと、本当に、兄さんが兄さんで良かった。身内で、でも家族でなくて。心からありがとうって思っているのよ」

ああ、なんだかとても嬉しい事を言ってくれている気はするけれど、それは一体どんな意味?なんだか考えようによっては最後通牒を突きつけられたような気さえする。どうせ家族なら、これからなる家族の頭数に入っていたかった、なんて今更言い出していいものなのか。どちらにせよ、今この場所ではとうてい無理だけれどね。

次に何を話せばいいのか一瞬ためらっている間に、噂の、あるいは噂になり損ねたレイン博士がやってくる。
そうして君は入ってきた時と同じようににこやかにここを去る。隣に並んだレイン博士が微苦笑を浮かべている意味は、あまり考えたくない。
そして君たちを見送った僕は二人分のカップを載せたトレーを運びながらため息をつく。
いつ渡そうかと悩んだまま胸のポケットに入れっぱなしのペンダントは、当分そこから移動できそうにない。
そして改めて、一緒に過ごした短い年月は僕のアドバンテージではなくて、逆に足かせだ、と実感するのだ。


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