君と一緒に雪を見たい                     by   YUKI様


1


早朝。

聖地。

「今朝は霧が深いな…」

彼のその言葉通り、乳白色の霧が朝の聖地を覆っていた。

聖地には四季がない。四季がないどころか天候すらも管理されていて雨の日や風の日、ましてや雪の日なんかない。宇宙は広いので、なかにはそういった環境の星もある。
が、彼の故郷の星は四季に恵まれたところだった。
春は冬眠から目覚めた生き物と、長い冬の間に密やかな呼吸を続けていた木々が芽を出し、花が顔を覗かせる。夏は明るい陽射しが緑を濃くしてゆく。青い空に白い入道雲が美しく映える。秋は濃緑が紅く変わる。そうして木々は豊かな実を付ける。その豊穣の喜びが人々を祭りに駆り立ててゆく。そして冬。

”俺は冬も結構好きなんだよな”

冬は眠りにはいるように見えて、実は森の木々は眠っていない。密やかに呼吸をしながらじっと準備を行っている。時に、腹を空かした動物たちに食べ物を供給する。が、自然界は総てのものが循環している。それは生物だけでなく水や大気も循環の一部を作っている。

”雪もその一部だ”

彼は雪が好きだ。
正確には雪の中を歩くのが好きだ。

勿論雪の、ひいては冬の厳しさは知っている。吹雪の中を歩くのが好きだとは言わない。だが、どんどん世界を白く変えていく、舞う雪の中を、コートの襟を立ててどこまでも歩いていくのは、彼の冬の最大の楽しみだった。

聖地に来てからは雪を見ていない。
そして、それは、ほんの少し彼にとっては淋しいことだった。
別に今の生活に不満はない。
仕事は少々厄介なこともあるが仕方のないことだ。それでも土をいじる時間は充分にあるし、美味い酒も手にはいる。雪が見られないことなど何ら不満に思うことにはならない。

でも、彼は聖地に来てからのささやかな楽しみのひとつとして、霧の中を歩く。
朝は弱いほうではないから、早起きは早程苦にはならない。

時々、馬で早駆けをする青年の姿を見る。
そんな青年には声をかけないようにしている。未だ若いのだ。何もかも放り出してがむしゃらに走りたい朝もあるだろう。
さらにごくたまに徹夜明けの散歩をする青年を見る。
物憂げな表情は苦しみを隠す仮面であることを気付いたのはいつだったのだろう。そんな青年の苦しみに気付かぬ振りをするようになったのはいつからだったのだろう。

彼は、運命論者ではなかった。

”だが、いつかはあの苦しみが昇華されることはあるのか…?”

誰も、答えを知らない。
本人たちでさえも。

それが、哀しい。

「確かに、俺には何の不満もない」

口に出してみた。

今朝はことさら霧が深い。数メートルの視界すらきかない。
乳白色をつくりだしている、細かな、密度の濃い水滴はしっとりと彼を濡らす。
袖まくりをしたシャツがしんなりしてくる。そこから出ている腕がひんやりする。後ろに束ねている髪が、少し重くなる。
この感じが、好きなのだ。

片方の手はズボンのポケットに入れていた。
ベストのボタンは一つも止めていないし、シャツのボタンも三つあけている。そういうラフな格好が好きだ。
これが夜ならワインの瓶を片手に持つところだが、今は朝だ。朝だからこそ、霧も出る。こんな朝は片手に花を持つようにしている。別にばらでなくとも構わない。今朝は自分の館の庭に咲いていたゆきやなぎを手折ってきた。

ほんの数メートル前も霧の為見えないのに、彼は何の躊躇いもなく歩いている。
聖地は狭い。一年もいれば、もうどこに何があるかなど手に取るように分かる。

”次の角を右に曲がれば…”

さっきから館の塀沿いを歩いている。彼女の館だ。彼の館から彼女の館は歩いて二十分程のところにある。塀沿いの道をずうっと歩くとやがて塀は垣根に変わり、いつのまにか庭に入れるようになっている。女王補佐官の館にしてはもう少しきちんとしていてもよさそうなものだが、彼女は生活の殆どを女王のいる宮殿で過ごす。移動は常に馬車で、警護の者が大勢付き従う。門や館の周辺にも二十四時間体制で王立軍の兵が警護を行っている。庭の外れの垣根が途切れていたところで実際に何かが起きる訳ではない。

聖地は平和なのだ。

彼ら守護聖や女王、女王補佐官らの運命を拘束する代わりなのだろうか。彼らの生活は贅沢と平和が保障され、その生活を維持するために莫大な人と金が使われている。そして、その平和と怠惰な生活に馴れたころ、彼らは用済となる。
守護聖は年功序列制ではないので、古い者から去る訳ではない。つい先日、鋼の守護聖が聖地から退がった。

サクリアという神秘な力を得る代わりにそれまでの総てを失う。名誉とともに聖地に移り住む代わりに親兄弟との永遠の別れが訪れる。そして束の間の平和と人々からかしずかれる生活と引き換えに自由を失う。

”女王や女王補佐官も同じだ”

別に、それは、それほど悩むことではない。

”不満もない”

「カティス…」

突然後ろから肘に触れられる。

慌てて振り向く。

「どうしたのですか。随分と難しい顔をされて…」

ディアの表情は不安げだった。

「いい朝だ。特に霧の匂いがいい。俺の好きな匂いだ」

顔中で笑う。
この笑顔を彼女は愛している。
だから、彼女の前では笑顔を惜しみたくない。

「霧にまじって香ってくる緑の匂いはもっといい。申し分ない」

そして、また笑う。

ディアは漸く安心したように微笑み、
「あなたも緑の守護聖だった…、ということですね」
と、言い、言ってからにっこり笑う。
「おいおい。それはないだろう。俺はいつも緑の守護聖のつもりなんだぜ」
「はいはい。ほほ」
自分も彼女の笑顔を愛しているのだと、思った。

カティスはディアの肩を抱くと、
「少し歩こう。霧が晴れる前に」
と、歩き出した。
ディアはごく自然なふうに彼に寄り添うと頷いた。
彼女の髪の香りが彼の鼻孔をくすぐる。彼の好きな香りだ。肩を抱く手にほんの少しだけ力を入れる。

彼女の庭の裏は林に続いている。
特に手入れはしていないが散歩できるような小道は確保されている。散歩コースとしては最適だ。朝はいつもここを歩くことにしている。彼女の好きな場所だ。カティスはそれを知っている。

時折、鳥の声が聞こえる。

「新しい鋼の守護聖は相当なやんちゃ坊主だな。前の奴も手に負えない奴だったが。
鋼ってのはそういうサクリアなのか」
「…今は未だいろいろなことに混乱しているのでしょう…。もう少し時間が経てば落ち着いてくれると思います」
「女王補佐官も気の休まるときがないな」
「そんなことありませんわ。こうしてあなたといられるだけでわたくしは…」
「ああ。そうだな。そうだった」

カティスは、今朝は未だ彼女にキスをしていなかったことを思い出し、立ち止まると少しかがんで彼女の額に唇を寄せた。
その拍子に、自分の手に花があることを思い出した。
三十センチぐらいに折ったゆきやなぎを二本。さらに何本かに折ると、彼女の髪にさした。
「ありがとうございます」
「白い花は結構好きなんだ。それに、この花の花言葉は静かな愛。お前にぴったりだな」
少し、彼女の顔を見詰め、頬を撫でてから仰向かせた。そして、柔らかい唇に口付けた。

しっとりと丁寧に吸う。彼女の唇の感触に時間を忘れそうだった。どんな極上のワインも適わないかもしれない。軽くするだけのつもりだったが、舌を絡めたくなった。
我ながら大人気ないと思いつつも、そっと噛んで彼女の唇をこじあける。

再び歩き出したのは可成り経ってからだった。

「奴のことはルヴァに頼むといいんじゃないか」
「ゼフェル…を、ですか」
ディアの顔は、未だ赤い。
「ああ。ルヴァは一見全く逆タイプだが、あれで人間関係に気を遣うほうなんだ。良い教育係になると思うぜ、俺のお墨付きだ」
「まあ。御自分で自分のことをそう仰るかたも珍しいですわね」
「そうか。だが、人を見る眼はあるつもりだぜ」
「わかりました。ルヴァにお願いしてみますわ」
「そういう素直なところがお前のいいところだ」
「まあ」
ディアは嬉しそうに眼を細めた。

彼女は褒め言葉に敏感だ。
どんなふうに褒めても喜んでくれる。
”いい女だ”
褒めがいがある。


2


最初にその笑顔に気付いたのはいつのことだったのか。
彼女が女王候補だったときだったか。
いつも自信なさげで下を向いてばかりいた少女だったが、妙に存在感があった。
実際に試験官だった若い三人組は最初から、或いは段々と女王に心惹かれていった。
輝く金髪。まっすぐ前を向いた自信と輝きに満ちた表情に。
自分は試験官ではなかったが、それでも二人のことが何だか気になって、何かしてやりたくて仕様がなかった。元気づけたり、からかったり。慰めたりと何くれとなく世話をしてみた。特に、自信のなさそうな少女のほうに。
だが、別に一目惚れだったということではなかった。
第一印象では単なる子どもだった。
ならばいつ?

”そうだ。こんな朝だった…”

深い霧の朝、その少女は宮殿内の彼の花壇にいた。

「よお。ディアじゃないか。随分と早いな」
霧の所為で近くに来るまで全く気付かなかった。それで少し吃驚したが、その事実を簡単に隠せるぐらいは、彼は充分大人だった。

「カティスさま。おはようございます」
下を向きながら話すのはいつものことなので、大して深く気に止めなかった。
いつものように花の様子を調べたり、雑草を抜いたり、水をやったりと、彼女がいるという事実は全く気にしなかった。霧の所為でよく見えなかったし。

「…この花壇は、カティスさまが世話をしていらっしゃったんですね。いつも綺麗な花が咲いていて。…私、この花壇が大好きなんです」
唐突に話しかけてきたディアに対し、カティスは、改めて思い出したというふうに振り返り、
「そいつは光栄だな。そうやって人から綺麗と思われて、こいつらも喜んでいるよ」
と、笑った。
「この花、私の姉が大好きなので…」
ディアは、少し赤くなりながらノースポールを指さした。
「それに…、この花壇は草花だけじゃなくて、ゆきやなぎとか…、ミモザとか…、はなみずきもあって、木の花が多い所為か落ち着きます」
「そうか。それはよかったな」
「まるで…カティスさまみたいです」
「え?」
吃驚して、彼女の顔を見る。
ディアは見る見るうちに赤くなり、
「あ!いいえ!ごめんなさいっ。そのっ!あのっ!!」
と、下を向いて、胸の前で両手を強く振った。
その様子が何やらやけに可愛らしく、花壇を褒められたこともまた嬉しくて、つい、
「俺はこれから館に帰って朝食をとるんだが、よかったら付き合わないか。お茶ぐらい御馳走するぜ?」
と、誘ってしまった。
ディアは吃驚したように顔をあげた。そして、
「でも、」
と、顎に指を当てて顔を斜め下に向けた。
その様子に、カティスは、
「いいじゃないか。さっ」
と、彼女の手を持って、強引に立たせてしまった。
ただ、自分でも驚いたのは、その手を離したくなくなってしまったことだ。
勿論すぐに離したが。
”俺としたことがこんな子どもに…”
額に手を当てて苦笑した。

「今朝は霧が深いですね…」
歩きながら小さな声でディアが言う。
「そうだな…」
ともすれば霧で見えなくなりがちな彼女を顧みて相槌をうつ。
「私、こういう霧の中を歩くのが好きなんです」
日頃、自分でも変わった好みだと思っていたので流石に何と答えたらよいのか分からなかった。「俺もだ」なんてどうもとってつけたような気がして。
「結構ロマンチストなんだな」
にっこり笑った。
彼女が真っ赤になるのが分かった。

それから何度か彼女と朝食を共にした。
特に、霧の朝には待ち合わせしていた訳ではないのに必ず散歩中に出くわした。会えば、その都度朝食に誘った。
朝食の席で、褒める度に真っ赤になりながら微笑む彼女を見て、愛されていると思うようになった。彼女が作った朝食を食べたこともある。美味しかった。素直に褒めたら本当に嬉しそうに微笑んだ。
確かに悪い気はしなかった。彼女は美人だったし、嫌いなタイプではなかった。自分に褒められることを喜びと感じていることはどうみても明らかだったし、自信なさげな少女が成長を重ね、段々と落ち着いてくるさまを見るのは心地よかった。

その彼女の良さは当時の女王にも認められ、新女王の推薦のままに女王補佐官となって聖地に残ることに許可が与えられた。

二人のつきあいはその後も続いた。

ただ、たまに早朝に散歩をし、朝食を一緒にとるというそれだけのつきあいだった。

日に日に彼女はしっとりとした大人の女性として成長していった。女王の、彼女に寄せる信頼は並々ならぬものがあったし、補佐官としての彼女はその期待に応えた。豊かな、度量の広い落ち着いた心根と誠実な言動は、守護聖の間にも信頼を高めさせた。

何でも、と、いうわけにはいかなかったが、ディアは様々なことをカティスに相談した。カティスは相談されるのが好きだった。昔からいろいろな人に優しくするのが好きだった。だが、暫くして、彼は相談されることが好きなのではなく、その結果見ることのできる彼女の笑顔が好きなのだと自覚するようになった。

忘れていた胸の疼きは、彼にとって辛いものだった。


3


その日は朝から粉雪がちらついていた。

カティスはコートのフードを被って、川のほとりに立っていた。川に降る雪はみるみる溶けていく。が、自分の袖や川から出ている杭、足下の草などにはどんどん雪で白く変わってゆく。白い空を舞う雪は灰色に見えるものなのだと、妙なことに感心したりした。
何時間も立っている所為か、身体が冷えきっている。吐く息も既に白くない。
ただ、じいっと川面を見詰めていた。

「カティスーッ!」

遠くから自分を呼ぶ声がする。

「やっと来た」

振り向く。

すばるだ。

「カティスーッ!」

すばるは部活の時間のような駆け足のフォームで、腕を思いっきり振りながら走ってくる。黒い髪。赤いコート。フードが半分脱げていて、髪に白い雪が降りかかっている。はく息が白く見える。頬はコートと同じぐらい真っ赤だ。鼻の頭も赤くなっている。

すぐに分かった。

”泣いてるんだ…”

カティスは慌てて自分の鼻の頭を手の甲でこする。

「カティスッ!」

二メートル手前で彼女は止まった。
はあはあと乱れた呼吸と一緒に肩が大きく上下している。
鼻をすすってから、頬を手の甲でグイグイこする。
それから、きっとカティスを睨むすばる。

「どうして!どうしてもっと早く教えてくれなかったの!?」

”すばる…”

「急じゃない!明日なんて…!明日なんて急すぎる!!未だ…未だ春になってないのに!」

それから、すばるは一気に距離を詰めると、カティスの胸を拳で叩いた。

「どうしてもっと早く教えてくれなかったのよ!もっと早く教えてくれれば…!!」

「…教えたって、どうにもならないよ。……もう、決まったことなんだから」

漸く、それだけ言えた。

「だって!」

すばるも、もうそれ以上言葉を続けることができなくなった。

顔中涙だらけでくしゃくしゃだ。
コートのポケットからハンカチを出してすばるに渡した。
すばるは顔を拭いてくれた。自分も同じような顔をしていることにカティスは初めて気が付いた。彼は彼女の手からハンカチを受け取ると、自分も彼女の顔を拭いてやった。

「ありがとう…」
拭いても拭いてもあとからあとから涙が出てくる。すばるは礼を言いながらカティスの手をとった。そしてそのまま彼の手を握る。
「…冷たい手」
「雪の中でずっといたからな。お前が…待たせたからだぜ」
「ごめん…」
すばるは手を握ったまま、素直に謝った。
「ここに来る途中で…カティスのこと、聞いたのよ」
「そうか。今日、自分でお前に言うつもりだったのにな」
そう言って、カティスは笑った。
ただ、顔が悲しく歪んだだけだった。

彼女と見詰めあった。

自分の手を握ったまま自分を見詰める少女は同じクラスの喧嘩友だちだった。小学校からずっと同じクラスで何かと理由を見つけては張り合っていた。
成績も優秀で男子に対しても女子に対しても優しかったカティスはみんなの人気者だった。でも、すばるだけは違っていた。その彼女の喧嘩腰の態度は、決して嫌なものではなかった。いや。好きだった。

「…冬が、好きだって喧嘩したことあったよな」
「あんたが…、春が好きだってうるさく言うから」
「お前だって雪が好きだって言ってたじゃないか」
「あんたが桜吹雪はいいもんだ、なんてしたり顔で言うからよ!」

一生懸命に、涙だらけで訴える顔を可愛いと思った。
今まで、一度も可愛いと思ったことなかったのに。
”本当は、ずっと可愛いと思っていたのかもしれない。だからこいつにだけは自分で言うつもりだったのかもしれない”
そう思ったら我慢できなくなって、すばるの真っ赤な頬にキスをした。

「俺、雪が好きになりそうだ。初めて、お前にキスした記念だからな」
吃驚した顔で自分を見詰めるすばるに、ちょっと照れながら言った。
だがすばるはもっとものすごい剣幕で、
「あたしは嫌い!雪なんか大大大ッ嫌い!!あんたを連れに来たんだ。あんたはこれから聖地で神さまになるっ!あんたともう会えない!あたしは聞いたことあるよ。聖地ではみんな年をとらないって!あたしがおばあちゃんになってもあんたは十代の、今と同じ若いまんまなのよ!!」
と、怒鳴った。
カティスも、その話は聞いていた。

すばるは「神さま」なんて言ってるけど、正式には守護聖という。サクリアという特種能力を授かった青年は、聖地へ行って女王陛下の為に一生働く。それはとても名誉なことで。でも、生まれたときから分かっている訳ではないから、誰もが突然に目覚め、そして、突然聖地から迎えが来る。カティスのところに聖地から人が来たのもついこのあいだだった。

「帰ってくるよ」
彼は、泣いているすばるに言った。
「きっと帰ってくるよ」
すばるは、一瞬きょとんとしたが、直ぐにいつもの顔になって、
「何言ってるのよ!帰って来れる訳ないでしょ?できたって、あたしはもうおばあちゃんか死んでるわよ!!」
と、さっきよりも大きな声で怒鳴った。
「だから、待ってなくていいよ!」
カティスも、負けずに大きな声を出した。
「俺は忘れない。俺は憶えてていつか必ず帰ってくる。お前がおばあちゃんになっててもいい!でも絶対帰ってくる!!」
すばるに負けず劣らず大声で言った。
「カティス…」
「約束だ」
カティスはそう言って、すばるを抱きしめてキスをした。すばるは…、まだ泣いていた。

あれから聖地で十年近い歳月が流れた今、彼女の近況は一切分からない。

少年の日の、苦い初恋の思い出だった。


4


初めてカティスが自分を抱きしめ、愛していると言ってくれた朝のことを、ディアは昨日のことのように憶えている。

霧の朝だった。
誰もいないしんとした木々に囲まれて、自分の心臓の音が辺り一帯に響いているように感じた。普段なら鳥がさえずっているのに、まるで自分たちに気を遣っているかのように、その朝は鳴かなかった。
風が、火照った肌を鎮めるかのように頬に当たる。でも、その風よりも自分より熱い彼の頬のほうがずっと心地よかった。自分を抱きしめる力強い腕のなかで、身体が溶けていってしまいそうな感覚に襲われる。
その朝、自分に訪れた総てのことが初めてのことで、総てのことが夢のなかの出来事のようにあっという間に駆け抜けていった。

ずっと彼のことを愛していた。

彼も自分を愛しているということは、決してうぬぼれではなく感じていた。カティスの限り無く優しい笑顔。暖かな眼差し。力強い言葉の数々。それらはいつも自分だけに向けられていた。

それなのに自分から打ち明けたことはなかった。

自分が女王補佐官だから?
彼が守護聖だから?
親友とあのかたの心を慮って?
宇宙はやがて滅びるから?
それとも…いつか必ず別れの日が来るから?

だから。

今を大切にしなければならない?

いろいろな考えが頭を過ったが、彼の口付けを受けた瞬間、そのような考えはすべて飛んでしまった。
少女の頃はいつか愛する人とキスをする自分を夢見たことはあった。でも、どんな感覚なのかは夢見ているだけで想像もつかなかった。
背中と頭に彼の手を感じた。強く、たくましい彼の腕に抗う術など何もなく、求められるままにただ流された。時折、彼の唇が耳許にずれ、「愛している」と、囁かれる。
同じように「愛している」と答えたつもりだった唇がしびれたように上手く動かなくて、ただ吐息がもれるだけだった。

”愛しています…”

本当に、本当に。至福の時だった。

…………。


5



「昨夜は…、申し訳ありませんでした」
ディアは、カティスに寄りかかりながら密やかに言う。
「ふっ。気にしてないさ。補佐官殿はいろいろと忙しい」
カティスはにやりと笑った。

「それより、お前に頼みがあるんだ」

立ち止まると、ディアの顔を見た。
「あら?何ですの?あなたから頼みごとなんて珍しいですわね」
ディアは、立ち止まるとカティスを見上げた。
その素直そうな表情にカティスは安心すると、でも言いにくそうに切り出した。
「…休暇を、とれないか」
ディアは、ちょっと驚いた。

頼みごと、というのも初めてな気がするが、彼が互いの仕事に関わるようなことを言い出したのも初めてだった。
「鋼の守護聖が交代したばかりで、大変な時期だということは良く分かってる。だが、できたらお前と行きたいところがあるんだ」
「わたくしと…?」

「ああ。お前と、雪が見たい」

「雪?」
「ああ。…駄目か」

不安そうに自分を見詰めるカティス。いつものお日さまさながらの笑顔とは違う。

ディアは、カティスが自分に対しそのような我がままを言ってくれたことが寧ろ嬉しく、
「分かりました。女王陛下に頼んでみます。大丈夫だと思いますわ」
と、にっこり笑った。



6


二週間後、二人はカティスの故郷の星に降り立っていた。

生家に行くことを拒んだカティスはホテルに部屋をとった。
どう見ても夫婦の二人は、ディアの幸せそうな表情から寧ろ新婚旅行に間違えられ、通された部屋は最上階のスイートルームだった。

ゴージャスかつバブリーなその部屋は白と茶と金で統一されていた。
三部屋続きで大きな窓からは綺麗な夜景が見える。
シーズンオフのホテルはあまり人は泊まっていなさそうだった。
ホテルのレストランでディナーをとった二人は部屋に引き上げた。
今日のディアはことのほか美しかった。
髪型はいつもと違い、一つに緩やかに束ね、右側に下ろしていた。リボンと花であちこちをバランスよく飾って。ドレスは薄い桃色の上質のシルクで肩をすっかり出していた。首と胸元には揃いのダイヤのネックレスとブローチを着けていた。シャンデリアの明かりに反射してキラキラ輝いている。白のファーでつくったストールを肩に掛け、手袋は手首までの短いものだが、上質のレースでできていた。
流石のカティスもそんな彼女に合わせ、黒のスーツを着けていた。

「明日の朝早く散歩に行きたいんだが。いいだろう」
「ええ。勿論。…雪が降るといいですわね」
「ああ。きっと降るさ。俺は日頃の行いがいいんだ」
「まあ。ほほ」
カティスの軽口にディアは陽気に微笑んだ。

カティスはミニ・バーからワインをとり、ディアにグラスを渡した。
「甘いのがいいだろう」
と、言いながら注いだのは金色に輝くデザート用の貴腐ワインだった。

ソファに二人で並んで座ってグラスを傾ける。
「美味しい…」
既にディナーのワインでほろ酔い気分のディアは頬をさらに赤く染める。
「ああ。このワインがあるとは、正直俺も驚いてるよ」
カティスは、軽く彼女の肩を抱くと、目もとに口付けた。

「…無理を言ってすまなかったな」
詫びる。
「いいえ」
ディアは頭をふった。
「あなたの望みなら。それに、わたくしも嬉しいわ」
”いい女だ”
二人一緒に休暇をとることがどれだけ大変かはわざわざ説明されなくともよくわかる。
この一週間をひねり出す為に彼女はとても苦労をした。女王だけでなく、他の守護聖にも二人の関係が明らかになってしまうということもある。
それなのに、嬉しいと言ってくれる彼女はいじらしい。
「ありがとう」
彼女の手からグラスをとり、傍らのテーブルの上に置く。
そうして、彼女のうなじに手を伸ばし、口付けをした。
ワインの甘い香りと彼女のいい香りが一体となって、彼を酔わせる。
「…愛している」
彼女の幸せそうな笑顔が心の底から愛しい。
カティスは、強く彼女を抱きしめた。


7


翌朝。

二人は雪の舞うなかを寄り添って歩いた。

”緑の守護聖って天候を操ることができるのかしら…”
ディアは疑問に思った。
昨日は穏やかな小春日和だった。ホテルの部屋から見渡す夜景も素晴らしく遠くのほうまで良く見え、星々も美しくきらめいていた。まさに千金に値する美しさ。なのに、今朝はカティスの言った通り、白い空から細かな雪が無数に降りそそいでみるみる街を白く染めあげていた。

”それともカティスだから…?”
ディアは密やかにカティスに寄り添った。

「寒いのか」
「ええ。大丈夫です」
とはいえ、女王補佐官に風邪を引かせたとなればこれは一大事だから、彼はしっかりと彼女の肩を抱き寄せた。

「この街は大きな川が一つ流れていてな」
説明する。
「ええ」
「川の東側は新興地域なんだ。俺たちの泊まっているホテルもそうだし、大企業や他の地域から移り住んできた奴らの新興住宅地にもなっている。それに対して西側は旧地域だ。昔からこの地域に住んでいる連中はこちら側だ。俺の生まれた家もこちらにある。街としての開発は一切してないからごちゃごちゃしてて色々な奴が住んでいる。とはいえ、別に東と西で喧嘩してるとか、そんなことはないぜ。ただ、西の奴は西が好きで、東の連中はそっちが住みやすいってだけだ」
「そうなのですか」
ディアは大人しくカティスの説明に耳を傾けている。
「あのホテルは東の外れにある。観光地としての街並みや、教会や館風の建物なんかは西側に圧倒的に多いからな」
カティスは、唐突に前方を指さすと、
「ほら。あれがその川だ」
と、ディアに示した。
「あちら側に行ってみませんか」
「ああ。…そうだな」
彼らは、ゆっくりと歩き出した。

大きくて綺麗な橋を渡る。
両側に様々な国旗が並んでいる。
「昔、東と西は違う国だった。この橋は二国が統合された記念だ。だから国旗が飾られている」

「土手が遊歩道になっているのですね」
「ああ。西側の特徴だ」
「行ってみたいですわ」
「了解」

寄り添ったまま、川岸に降りる。

カティスは先程から、そっとディアの髪にかかる雪を丁寧にはらっている。

立ち止まって、川に降る雪を見る。

「美しいわ」
ディアは幾分赤くなった頬をカティスに向けた。
「川に降る雪がか」
「ええ。それもありますわ。でも、この眺め全体が。朝でなければきっと見られない光景なのでしょうね」

薄暗い空から舞う雪は灰色に見える。
足下の草はひっそりと震えながら白く染まり、寒さに耐える。川に打ち込まれている杭の上には白と黒の美しい模様の鳥が震えながらじっと座っている。

「俺には…、川に降る雪は可哀想だと思えてな。すぐに消えてしまう」
「汚れを知らずに…、とも言えますわ」
「ああ。確かにそうだ。だが、仮令汚れても生きることが大事だと俺は思っている。
生きてこそ花咲くのさ」
「あなたらしい台詞ですわね」
ディアはたおやかに笑う。

「命の儚さを感じるのは人間として大事なことだと思いますわ。わたくしたちもまた限りある命を生きる人間である以上忘れてはいけないことですわね。儚い命も、確かな命も、ともに愛おしむ女王陛下のお心に少しでも副いたいとも、思います。ですからわたくしは川に降る雪も命在るものの上に降りそそぐ雪も…、どちらも美しいと感じています。それに…」

カティスはじっとディアの顔を見詰めている。

「…雪に耐えるものたちの命は、一見可哀想ですが。…ですが雪は自然の厳しさをも象徴するものであり、真に強い精神を育みむものでもあります。そういう意味では優しいのかもしれません。わたくしは雪が好きですわ。美しく、強さも儚さも兼ね備えたようなそんな雪が。こうして、あなたと一緒に見る雪が…」

「聖地では…雪を見ることができなかったんだ」
カティスは小さな、掠れた声で言った。
「どうしたのですか?」
ディアはいつもと違うカティスの様子に、不図、不安を覚え彼を仰ぎみる。
「四季が…欲しかった。ずっと。偽りの、管理された自然。変化のない、ただ欺瞞的に続く日常。閉鎖的な人間関係。何年も何年もそのなかでただ蠢いているだけの俺たち……。偽りの…四季のない世界では、植物たちは少しも休む暇がなく。勿論俺も…休めなく」
「カティス……、あなた」
ディアは、何か言おうとした。
が、カティスはそんな彼女の口をふさいだ。

「お前と…、会えて良かった」
カティスは唇を離すと囁いた。
そうして、ディアを抱きしめると、自分のコートのなかにすっぽりと彼女をつつみこんだ。
「いや。会えたのがお前でよかった。俺の…愛した女がお前で本当に良かった。俺は…初めて、聖地もまた自分の故郷だと感じることができるようになった。初めて…、守護聖になってよかったと心底思ってる」

ディアは、何かを求めるように、彼の顔を見上げた。

情熱的に唇を重ねる彼の頬は火照ったように熱かった。



Fin.

「カティス×ディアのロゼワインより甘いお話」になりましたかねえ、、、。(不安、不安、不安)
すばるさまのイメージ、勝手に作っちゃいました。書き直しの場合はお知らせ下さい。
髪の長さとか性格とか口調とか、、、(←全部やんか!)

、、、あまり多くは語れませんが、難しかったとだけ(でも楽しかった)申し上げておきます。どうもまことに失礼致しました。

カティスのええ男ぷりったら、キャー!!
しかも私めが初恋のお相手にて登場、ドッヒャー!!!
もうダメっす(溺・・)(コワレすばる)





すばるがまたまたYUKI様のサイトでキリ番を踏みました。
私達ばっかり頂いて皆さまに申し訳ない、と辞退させていただこうとも考えたのですがYUKI様のお話をリクエストできる誘惑には勝てませんでした。

で、お題は「カティス×ディアのロゼワインより甘いお話」。


ああ、しっとりと情感溢れるこの世界。うちみたいなおちゃらけサイトに置いて良いのかと自問してみたりする今日この頃。
朝の描写の美しさにため息をつき、カティスの渋さにくらくらし、ディア様の清楚かつたおやかなたたずまいにうっとりし、ふたりの甘いけれど大人っぽい世界にドキドキ。聖地の恋の基本は底に横たわる切なさだと改めて認識したり。

「あー、えーもんみせてもろたわー」ロゼワインよりも酔えるのは確かですよね。

それにしてもYUKI様の作風の多彩さには脱帽です。
あと個人的にはすばるのキャラにいろいろな意味で笑ってしまいました(YUKI様すみません。)

YUKI様、すばらしい作品をどうもありがとうございました!!


*YUKI様のHPよりいらした方は、ブラウザの「戻る」をお使い下さい。

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